源頼治 (MINAMOTO no Yoriharu)

源頼治(みなもと の よりはる、生没年不詳)は平安時代後期の武将。
大和源氏源頼俊の次男。
母は播磨国守藤原定輔 (藤原説孝息)女。
通称宇野冠者。
中務丞。
子に源親弘らがある。
宇野氏の祖。

嘉保2年(1095年)に延暦寺の僧兵が源義綱の配流を要求して強訴を起こした際に、関白藤原師通の命により賀茂川の守備に就き、これを撃退する。
しかしその際、頼治の手勢が日吉神社の神輿を射たことが、さらなる延暦寺側の態度の硬化を招くこととなった。
降って4年後の承徳3年(1099年)には、師通が38歳にして急死。
これを神罰と恐れた朝廷は、ついに頼治を処罰することを決断し、佐渡国(一説には土佐国)への配流とした。

曽祖父源頼親、祖父源頼房に次ぐ頼治の失脚は、大和源氏の勢力衰退に一層拍車をかけることとなった。

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