牧野忠恭 (MAKINO Tadayuki)

牧野 忠恭(まきの ただゆき)は、江戸時代末期の大名。
越後国越後長岡藩の第11代藩主。
長岡藩系牧野家宗家12代。

三河国西尾藩主・大給松平乗寛の三男、母は側室。
兄弟に松平乗全、松平乗秩。
正室は太田資始の娘(牧野忠雅の養女)。
子に牧野忠毅(四男)、牧野忠篤(五男)、娘(牧野忠訓正室)、娘(牧野貞寧正室)、娘(牧野忠泰正室)、娘(本庄寿巨継室)。
幼名は壮之助。
号は雪堂。
官位は従四位下、備前国守、玄蕃頭。

江戸に生まれる。
長岡藩主牧野忠雅の養子となる。
安政5年(1858年)、家督を継ぐ。
奏者番、寺社奉行などを務め、文久2年(1862年)には京都所司代となった。
文久3年(1863年)6月に「当時の京都は騒動続きであり、長岡藩のような小藩では対応できない」として辞職した。
その3ヵ月後の9月、老中となって主に諸外国との折衝を務めた。
このとき、家臣・河井継之助を公用人として重用し、藩政改革を行う。
慶応元年(1865年)、政局に難題が積まれるに及んで、老中職を退いた。
京都所司代、老中の辞任はいずれも河井の進言によるものだった。
慶応3年(1867年)7月、隠居し、養子忠訓に家督を譲った。
隠居後、雪堂と号した。
北越戦争を経て謹慎し、明治に入ってから許される。

明治8年(1875年)2月、実子忠穀の隠居により、家督を再び相続した。
明治11年(1878年)、55歳で死去。
墓所は東京都港区 (東京都)の済海寺。

[English Translation]