物集高見 (MOZUME Takami)

物集 高見(もずめ たかみ、 弘化4年5月28日 (旧暦)(1847年7月10日) - 昭和3年(1928年)6月23日)は豊後国(大分県)出身の国学者。

経歴
父は国学者物集高世。
高見はその二男三女の長男として豊後国(現、大分県)速見郡杵築北新町に生まれる。
幼名素太郎、後に善五郎と改める。
鶯谷・菫園または埋書居士と号する。

少年時代、故郷で漢学と国学を修める。
慶応元年(1866年)、長崎に出て蘭学を修める。
慶応2年(1867年)、20歳の折に京都に出て、玉松操や六人部是香に師事して国書を修める。

明治2年(1869年)に上京。
明治3年(1870年)5月、平田銕胤(明治13年没、年82)門に入り国学を修める。
また神祇官職員の東條琴臺(明治11年没、年84)に師事して漢学を修める。
同年から神祇官の宣教史生の職を得た。

明治4年(1871年)24歳からは洋学も修める。
明治5年(1872年)から教部省に出仕する(中録十等)。
職務のかたわら辞書編纂を企画した。
また「本邦語源考」「事物名義考」の研究発表もしている。
高見の言語に対する興味はこの頃からあった。

明治7年(1874年)27歳の時、杵築在の岩田なつ子と結婚する。
国文法研究には英文法が必要と考え、明治8年(1875年)からは近藤真琴のもとで英語を学ぶ。
教部省が廃止されたので、内務省に移る。
明治12年(1879年)、高見33歳の折に内務省より月山神社宮司兼羽黒山神社・湯殿山神社宮司に任ぜられる。
学習院や女子師範学校の教授をも兼務している。
國學院大學の創立委員の一人として尽力した。

明治16年(1883年)1月2日父高世没する。
大分県気付きから東京大学文学部御用掛取扱(准判任官)に任ぜられる。

明治19年(1886年)三月から東京大学教授に任ぜられる。
さらに、東京師範学校や文部省参事官を兼任する。

明治20年(1887年)の1月7日、宮中御講書始めの講師を命じられる。
夏、避暑先の神奈川県横浜市金沢区富岡で、宮内大臣土方久元や御歌所長高崎正風、警視総監三島通庸などの高官に会った。
ある高官(松方正義ともいわれる)によって外交官に推されそうになったが謝絶した。
その代わりに国語辞典「日本大辞林」編纂事業への資金援助を約束される。
当時、小学校教師や警察官の月給が6~7円だった時代において、原稿料1枚10円という超巨額の援助だった。
このほか、門人下田歌子に乞われて、学習院女子高等科の副読本を執筆したこともある。

明治23年(1890年)には学習院大学部(旧制)の教授も兼任する。

明治28年(1895年)49歳の高見は勲六等瑞宝章を賜る。

明治32年(1899年)3月、博士 (文学)となる。
同年4月、東京帝国大学文科大学の井上哲次郎の勧告で大学を退官。
背景には、門人上田万年との文学論争をきっかけとする、上田とその弟子たちによる追い出し工作があった。
高見はこのことを深く恨み、息子高量に向かって「上田の家は小石川伝通院にあるが、決してその前を通ってはならぬ」と命じていた。
辞職直後は、乱れた心を鎮めるため、自宅で習字ばかりしていたとも伝えられている。

以後は私財を注ぎ込んで在野の学者として研究に没頭した。
貧窮の中で全国を行脚して約5万冊の書物を集め、さらにその総てを読破した。
「広文庫」全20巻の内の第1巻を大正5年(1916年)に広文庫刊行会より刊行、大正7年(1918年)には全巻の刊行を終る。
1916年~1917年に全3巻の「群書索引」を刊行してベストセラーとなった。

昭和2年(1927年)2月、81歳の折には「皇學叢書」全12巻を刊行した。
商業ベースの出版ではなかったが為、膨大な借財を負った。
昭和3年(1928年)6月23日、大分県速見郡杵築市寺町の自宅にて逝去した。
享年82。

長男物集高量は国文学者。
娘の大倉燁子(てるこ)と物集和子は共に小説家。

[English Translation]