玉木吉保 (TAMAKI Yoshiyasu)

玉木 吉保(たまき よしやす、天文 (元号)21年7月8日(1552年)- 寛永10年(1633年))は、戦国時代 (日本)の安芸国の戦国武将。
毛利氏家臣。
医師としても著名である。
父は玉木忠吉。
通称は初次丸、又三郎、太郎左衛門尉。
医師名は偽真。
官位は土佐守。

生涯

1552年に玉木忠吉の子として生まれた。
1564年、13歳の時に真言宗勝楽寺に入り修行する。
下山後に毛利氏の家臣としての主要な行動を開始し、1569年に旧領の周防国山口市に侵入した大内輝弘追討に参加している。
その後天正年間には尼子氏の尼子勝久、山中幸盛らに追討に参加し、1578年の上月城の戦いにも加わっている。
1580年6月、毛利輝元と織田信長の対立が激しくなる中、上方に赴いて曲直瀬道三流の医術を修行する。
修得後に帰国し、1585年の豊臣秀吉による四国征伐に参加。
1587年頃より毛利氏の領国支配の強化のため、安芸国、備後国、周防国、長門国、石見国、出雲国、伊予国等の検地を実施している。

1592年から始まる文禄の役にも毛利氏家臣として出征し、朝鮮半島の地で代官職である「郡外邦」に任ぜられた。
1593年に朝鮮の地から引き上げ、豊臣秀吉による伏見城築城に参加している。

1600年の関ヶ原の戦いの時の行動は不詳であるが、敗戦後は毛利氏に従い周防・長門国に移住した。
そして50歳を過ぎ、老境に入ったことから自身の健康のためにも医術に専念するようになる。
1633年、82歳の長寿で没した。

医師としての玉木吉保と「身自鏡」

玉木吉保の名は戦国武将としてよりも医師として知られている。
多くの医術書を記し、その効用は現代でも通用する現代的なものである。

著書
歌薬性(生薬と効能を歌としてまとめた医薬書)
歌脈書(脈を診る方法をまとめた診療書)
医術車輪書(軍記物風に、病を敵に、薬を将に見立て、発病から治療〜投薬の流れを記した)
戦国乱世が終焉を迎えた1617年に玉木吉保は「身自鏡」を記した。
これは毛利元就から毛利輝元、毛利秀就の3代に仕え、数多くの戦に参加した吉保の自叙伝である。
戦国武将の生活を知ることのできる貴重な資料となっている。

吉保は執筆や医術以外にも連歌や料理にも通じており、非常に教養の高い人物であったことがうかがえる。

[English Translation]