玉藻前 (Tamamo no Mae)

玉藻前(たまものまえ。玉藻の前・玉藻御前と紹介されることもある)は平安時代末期、鳥羽天皇に仕えた白面金毛九尾の狐が化けた架空の絶世の美女。
鳥羽上皇が院政を行った1129年から1156年の間に活躍したといわれ、20歳前後の若い女性(少女とも)でありながら、大変な博識と美貌の持ち主であり、天下一の美女とも、国一番の賢女とも謳われた。
また、化生の前(けしょうのまえ)とも云われ、その正体は白面金毛九尾の狐ではなく、2つの尻尾を持った狐であったとも云われている。

伝承の概要

最初は藻女(みずくめ)と言われ、子に恵まれない夫婦の手で大切に育てられ、美しく成長した。
18歳で宮中で仕え、のちに鳥羽上皇に仕える女官となったが、次第に鳥羽上皇に寵愛され、契りを結ぶこととなった。

しかし玉藻前と契りを結んだ後、鳥羽上皇は次第に病に伏せるようになった。
天皇家お抱えの医者が診断しても、その原因が何なのかが分からなかったが、陰陽師・安倍泰成(安倍泰親、安倍晴明とも)によって病の原因が玉藻前であることが分かり、その正体が九尾の狐であることを暴露された玉藻前は、白面金毛九尾の狐の姿で宮中を脱走し、行方を暗ましていた。

その後、那須野(現在の栃木県那須郡周辺)で婦女子をさらうなどの行為が宮中へ伝わり、鳥羽上皇はかねてから九尾の狐退治を要請していた那須野領主須藤権守貞信の要請に応え、九尾の狐討伐軍を編成。
三浦義明と上総広常という武士を将軍に、陰陽師・安部泰成を軍師に任命し、8万余りの軍勢を那須野へと派遣した。

那須野にて既に白面金毛九尾の狐と化した玉藻前を発見した討伐軍はすぐさま攻撃を仕掛けたが、九尾の狐の怪しげな術などによって多くの戦力を失い、最初の攻撃は失敗に終わった。
三浦介と上総介ら多くの将兵は九尾の狐を確実に狩るために犬の尾を狐に見立てた犬追物で騎射を訓練し、再び攻撃を開始する。

2度目とあって九尾の狐対策を十分に練ったため、討伐軍は次第に九尾の狐を追い込んでいった。
最後の抵抗として九尾の狐は貞信の夢の中に現れ若い女性に化けて許しを願ったが、貞信はこれを九尾の狐が弱まっていると読み、最後の攻勢に出た。
そして三浦介が放った二つの矢が九尾の狐の脇腹と首筋を貫き、上総介の長刀が斬りつけたことで、九尾の狐は息絶えた。

だが九尾の狐はその直後、巨大な毒石に変化し、近づく人間や動物等の命を奪った。
そのため村人は後にこの毒石を『殺生石』と名付けた。
この殺生石は鳥羽上皇の死後も存在し、周囲の村人たちを恐れさせた。
鎮魂のためにやって来た多くの高僧ですら、殺生石の毒気で次々と倒されていったと言われている。
室町時代、会津・元現寺を開いた玄翁和尚が、殺生石を破壊し、破壊された殺生石は各地へと飛散したと伝われている。

玉藻前のモデルは、鳥羽上皇に寵愛された皇后美福門院(藤原得子)であり、摂関家などの名門出身でもない彼女が権勢をふるって自分の子や猶子を帝位につけるよう画策して、崇徳上皇や藤原忠実・藤原頼長親子と対立して、保元の乱を引き起こし、更には武家政権樹立のきっかけを作った史実が下敷きになっているとも言われる(ただし、美福門院がどのくらい皇位継承に関与していたかについては諸説ある)。

人物像

江戸時代に入ると、玉藻前は酒呑童子、崇徳上皇(崇徳の大天狗)と並んで日本三大悪妖怪と言われ、歌舞伎や多くの小説・漫画・雑誌・文庫などに、主に悪役として多く登場することとなった。
そして中国の悪女、妲己と褒ジを結びつけることで、妖怪玉藻前は三国伝来白面金毛九尾の狐として昇華され、世界的な大妖怪というイメージが定着した。
よって、玉藻前と三国伝来白面金毛九尾は別の存在としたほうが正確である。

しかしごく一部ではあるが、玉藻前、九尾の狐を単なる国家や王朝を破壊しようとした悪役ではなく、孤独を恐れ、愛情に溺れ、運命に弄ばれた悲劇のヒロインとする見方もある。

[English Translation]