田中源太郎 (TANAKA Gentaro)

田中 源太郎(たなか げんたろう、1853年1月 - 1922年4月3日)は、京都府旧桑田郡亀山北町生まれの政治家、実業家。

京都府桑田郡亀山北町(現在の亀岡市)に、田中蔵一の次男として生まれたが、兄が早くに亡くなったため田中家の家督を継ぐべく英才教育を受けて育った。
北村龍象の私塾学半堂や横井忠直、山本覚馬らにも師事し、儒教江戸時代、経世論など幅広い分野を成績優秀で修めたとされる。
田中家は代々丹波亀山藩の御用商人として取り立てられた商家として栄えた。
父・蔵一は櫓奉行格に取り立てられ、会計方として亀山藩に仕えていた人物であったため、源太郎も経済界で活躍することを期待されて育った。

源太郎が実際に設立に関わったとされる事業は30を超えるが、中でも著名なのは、現在の京都銀行の前身「亀岡銀行」の設立、のちに京都証券取引所となる「京都株式取引所」、「京都電燈株式会社」、「京都鉄道株式会社」などである。
また政界においては、1874年に桑田郡追分村戸長をつとめたのを皮切りに、京都府議会議員、衆議院、貴族院 (日本)なども勤め、文字通り関西政財界のトップとして君臨し続けた。
その他、現在の立命館大学の前身「京都法政学校」の設立にも浜岡光哲らとともに賛助員として加わっている。

1922年4月3日、源太郎自身がかつて社長をつとめた京都鉄道の鉄道国有法後の後身である山陰本線の園部発京都行き列車に乗車中だった。
清滝付近(現在の嵯峨嵐山駅・保津峡駅間付近、今はトロッコ列車(嵯峨野観光鉄道・嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線)の線路となっている)で起きた脱線事故に巻き込まれ、列車もろとも桂川 (淀川水系)へ転落して亡くなったとされている。
実際には亀岡駅周辺の土地所有に絡む利益誘導に怒った地元民によって暗殺されたという説がある。

「数か月前に源太郎の京都の家の床から竹槍が発見されこと、保津峡の事故(?)の後、源太郎の死体の発見が遅れ、嵯峨村の消防団などが連夜に渡って松明を掲げて桂川 (淀川水系)沿岸の捜索を行ったが、発見できなかった。数日後に千鳥ヶ淵(現在の小倉山公園の対岸)の水底に紋付きの袂に石を入れられた状態で発見されたのです。目撃談では「白足袋が水面下に漂っていた」「紋付き袴が食い込んで脱がせられなかった」とあります。つまり、一度発見された源太郎は改めて沈められたのです」(嵯峨消防団員、田中家奉公人の証言)。
現在、田中源太郎の生家は改築されホテル(楽々荘)として利用され、1997年には「国登録有形文化財指定」を受けている。

[English Translation]