百済王敬福 (KUDARANOKONIKISHI Kyofuku)

百済王 敬福(くだらのこにきし きょうふく、697年 - 766年)は日本に亡命した百済王族の子孫。
749年、陸奥守在任時に陸奥国の小田郡から黄金が発見されたことで知られる。
また橘奈良麻呂の乱や藤原仲麻呂の乱の鎮圧にも功績があった。
官位は従三位刑部卿に昇っている。

百済王氏

百済最後の国王義慈王は倭国と同盟し、そのの王子扶余豊璋と禅広王(善光王)を人質として倭国に滞在させた。
しかし、百済は660年、唐の進攻によってあっけなく滅び、百済王室は唐の都に連行された。
百済復興のため倭国からかの地に渡った豊璋王も白村江の戦いに敗れ、高句麗に亡命するが、やがて唐に捕らえられる。
日本に残った禅光王のみが百済の王統を伝えることとなった。

藤原京の時代になって持統天皇は禅広王に百済王氏(くだらのこにきし)のカバネを賜り、長く百済王家の血脈を伝えさせることにした。
禅広王の子である昌成は幼時に父と共に来日したが、 父よりも早死している。

昌成の息子朗虞は後に平城京の朝廷で従四位下・摂津亮(せっつのすけ)に昇ることになるが、697年に敬福を生んでいる。
朗虞の第3子であった。
敬福の父、百済王朗虞は737年に亡くなっている。
また『公卿補任』に敬福は百済王南典の弟と記されているが、南典は朗虞の兄弟、つまり敬福の叔父ともいわれている。

百済王敬福は738年41歳の時に陸奥介(むつのすけ)として史料に現れる。
時の陸奥守は大野東人だった。

739年には 正六位上から従五位下の位を授けられ、 743年46歳で陸奥守(むつのかみ)に栄進した。

黄金発見

当時、聖武天皇は東大寺盧舎那仏像の建立を進めていたが、巨大な仏像に塗金するための黄金が不足し、遣唐使を派遣して調達することも検討されていた。
全国にも黄金探索の指令が出されていたが、これまで日本では黄金を産出したことがないのである。
746年4月敬福は何故か陸奥守から上総国守に転任するが、9月には官位が従五位上へと上がって陸奥守に再任されている。
奇妙な人事だが、あるいはこの時、黄金探索の手がかりがあったのかも知れない。

749年になって、陸奥守敬福から平城京へ陸奥国で産出した黄金900両が貢上された。
聖武天皇は狂喜し、東大寺大仏殿に行幸して仏前に詔を捧げ、全国の神社に幣帛を奉じ、大赦を行っている。
わざわざ遣唐使を派遣する必要もなくなったのである。
産金地である陸奥国小田郡を管轄する国守である百済王敬福は従三位へ七階級特進し、宮内卿河内国守に任命された。
また、産金に貢献した地方官人らもすべて位階が進められた。
年号は天平から天平感宝と改められ、さらに天平勝宝と改められている。
万葉歌人大伴家持は次のように黄金産出を寿ぐ。

すめろぎの御世栄えんと東なる みちのく山に黄金花咲く
須賣呂伎能 御代佐可延牟等 阿頭麻奈流 美知(乃)久夜麻尓 金花佐久 - 『万葉集』巻18 4097

確かな文献があるわけではないが、発見したのは敬福配下の百済系鉱山師ではないかとも言われている。
日本最初の産金地である小田郡の金山は現在の宮城県遠田郡涌谷町一帯であり、同町黄金迫(こがねはざま)の黄金山神社 (涌谷町)は延喜式内社に比定される。
現代の調査でも黄金山神社付近の土質は純度の高い良質の砂金が含まれているという。

激流の中で

同年4月9日、大仏開眼の法要が営まれ、5月26日には敬福は常陸国守に転任した。
また757年には出雲国守に転任している。
これらの官は実際に任地に赴かない遙任だろう。
同年に橘奈良麻呂の乱が勃発すると、衛府の人々を率いて黄文王・道祖王・大伴古麻呂・小野東人ら反乱者の勾留警備の任に当たった。

759年伊予国守に転任し、761年に新羅征伐の議が起こると敬福は南海道節度使に任命された。
紀伊国、阿波国、讃岐国、伊予、土佐国、播磨国、美作国、備前国、備中国、備後国、安芸国、周防国など12カ国の軍事権を掌握する役目である。
実際には新羅への進攻は実現しなかったが、万一半島反攻が成功していれば、敬福が百済国王に返り咲く目がなかったわけでもない。

763年には讃岐守へ転任し、764年に藤原仲麻呂の乱が起きると、敬福は藤原仲麻呂の支持で即位していた淳仁天皇を外衛大将として幽閉する役目を引き受けている。
淳仁天皇は淡路国に流され、孝謙上皇が重祚して称徳天皇となった。
765年称徳天皇の紀伊国行幸時には騎馬将軍として警護に当たり、その帰途天皇が河内国の弓削寺に行幸した際、従三位刑部卿百済王敬福らは本国の舞(百済舞)を奏した。
敬福は激動の時代を無事に生き抜き、766年に亡くなっている。
享年69であった。

[English Translation]