真田信繁 (SANADA Nobushige)

真田 信繁 (さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。
永禄10年(1567年)とされる生年は没年の49歳から逆算されたもので、月日は不明。

武田信玄の家臣であった真田幸隆の孫。
大坂の役で活躍。
特に大坂の役では、寡兵を持って徳川本陣まで攻め込み、徳川家康を後一歩のところまで追いつめたとされる。
江戸期以降、講談や小説などで真田十勇士を従えて大敵徳川に挑む天才軍師真田幸村(さなだ ゆきむら)として取り上げられ、広く一般に知られることになった。

名前について

本名の信繁(のぶしげ)は、武田信玄の弟・武田信繁の名を是にと父真田昌幸が信繁の息子に言って使わせて貰った名であるため改名はしていない。

「真田幸村」の由来

講談などの影響で「真田幸村(さなだゆきむら)」の名で広く知られているが、信繁直筆の書状を始め、信繁が生きていた同時代の史料で「幸村」の名が使われているものは存在しない。
従って歴史上の人物の名としては「信繁」が正しい。
講談などで語られる「幸村」の活躍に関しては後述する真田幸村の節を参照のこと。

「幸村」の初出は江戸時代の寛文12年(1672年)成立の軍記物語『難波戦記』にある。
その本が爆発的に売れたため、「幸村」とすることのほうが一般的となり、後には兄・信之の子孫である松代藩の史書にまで「幸村」が採用された。

新井白石著の藩翰譜に、幸村と記載されている。

「幸」は真田家(厳密には真田家の主家にあたる海野家)の通字である。
「村」については信繁の姉の村松や、信繁の子孫が仕えた伊達家当主の伊達綱村、徳川家を呪ったとされる妖刀村正に由来しているとする説などがある。

「幸村」という名は信繁の死後100年以内で広まっているため、真田昌幸の死後に昌幸の片諱を継承して実際に「幸村」と名乗ったのではないかとの推測もある。
ただし、可能性としてありうるものの「幸村」という名が記された史料が見つかっておらず、現状では立証が不可能である。

夏の陣での死の二ヶ月前に「幸村」と改名したため、という説もあるが史料に残っていない。
大阪冬の陣と大阪夏の陣の半ばの慶長20年2月に叔父にあてた手紙や、兄・姉にあてた手紙にも信繁の名がある。

武田家臣時代

永禄10年(1567年)真田昌幸(当時は武藤喜兵衛)の次男として生まれる。
母は正室の山手殿。

天正3年(1575年)信繁が9歳の時、真田氏の主家で甲斐国・信濃国を治める武田勝頼が、長篠の戦いで織田氏・徳川氏連合軍に敗北する。
この際、父・昌幸の2人の兄も亡くなったため、真田家は昌幸が継ぐこととなり、信繁は父に付き従い古府中(甲府市)を離れ上州(岩櫃城)に移る。
これより信繁も真田を称するようになった。

天正10年(1582年)3月11日 (旧暦)、織田・徳川・後北条氏連合軍の甲斐侵攻で武田氏が滅亡すると、真田氏は織田信長に恭順した。
3月19日 (旧暦)、武田遺領の分割が行われ、真田氏は所領を安堵された。

本能寺の変の後

同年6月2日 (旧暦)に信長が本能寺の変で家臣の明智光秀に討たれると、織田家の関東管領であった滝川一益は、神流川の戦いで後北条氏に敗れて伊勢に引き上げてしまう。
信長という後援が無くなった真田氏は、所領を守るために上杉氏・北条・徳川など周辺の諸大名の傘下を渡り歩くことになる。
この際に当主の息子である信繁は、人質として諸大名の下を転々としている。
徳川家康との間で第一次上田合戦があったのはこの時期で、豊臣秀吉の仲介で和解する。

昌幸は最終的に秀吉の傘下に入ったため信繁は秀吉の下に留まり、のちに秀吉の家臣・大谷吉継の娘を正妻に迎えている。
文禄3年(1594年)11月2日、豊臣氏名義で従五位下左衛門佐に叙任される。

関ヶ原の合戦

秀吉死後の慶長5年(1600年)に、五大老の徳川家康が同じく五大老の一人だった会津の上杉景勝討伐の兵を起こすと従軍した。
留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘(小松姫)で徳川方の東軍についた兄・真田信之と袂を分かつことになる。

徳川方の東軍は東海道と中山道を分かれて進軍し、昌幸と信繁は居城上田城に籠り、中山道を進んできた東軍の徳川秀忠軍と上田城にて迎え撃った(第二次上田合戦)。
寡兵の真田勢にてこずった秀忠軍は上田城攻略を諦めて去ったが、結果として主戦場となった美濃関ヶ原での決戦に間に合わなかった。

しかし三成率いる西軍は、9月15日に秀忠軍ぬきの徳川方に敗北を喫する。
昌幸と信繁は、本来なら敗軍の将として切腹を命じられるところだったが、信之の取り成しで紀伊国九度山町に配流を命じられるのみにとどまった(本来なら高野山配流であったが、信繁が竹林院を伴っていたため、女人禁制のかどで九度山に変わったと言われている)。

蟄居中の慶長16年(1611年)に父・昌幸は死去。
慶長17年(1612年)には信繁は出家、伝心月叟と名乗った。

大坂城に入城

慶長19年(1614年)「方広寺事件」をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化した。
大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人 (武士)を集める策を採り、九度山の信繁の元にも使者を派遣し、黄金200枚、銀30貫を贈った。
信繁は国元にいる父・真田昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して子の大助幸昌とともに大坂城に入城した。
しかし、入城の際の信繁の容姿は、歯は抜け落ち、白髪交じりで腰も曲がっていたため門番に山賊と勘違いされている。
大坂で信繁の率いた軍は、鎧を赤で統一していたという(赤備え)。
しかし信繁自身については、それまで真田氏の次男坊として父・昌幸や兄・信之の名声に隠れていたために評価は低く、徳川家康も昌幸ではなく、その息子で無名の信繁が大坂に入ったと知り安堵の表情を浮かべたとされている。

大坂冬の陣

慶長19年(1614年)に始まる大坂の役で信繁は、当初籠城に反対し、京を抑え、宇治・瀬田 (大津市)(宇治川の瀬田橋付近)で積極的に迎え撃つよう主張した(知将である父・昌幸の策とも言われる)。
しかし籠城の策と決すると、信繁は大坂城の弱点であった三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城(三日月形)を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し先方隊に大打撃をあたえた。
しかし、この真田丸を造る際、大坂方の他の武将は信繁が徳川方に寝返るための下準備と疑っており、少々ながらも警戒していた。
この時は越前松平家勢、加賀藩前田氏勢等を撃退し、真田昌幸の息子という扱いではなく、初めて“真田信繁”として、その武名を知らしめる事となる(信繁が主体的に戦闘の指揮を執った事が確認されるのは大坂の陣だけである)。

冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に真っ先に取り壊されてしまった。
そして大坂方の弱体化を謀る家康は慶長20年2月に、使者として信繁の叔父である真田信尹を派遣し「信濃の中で一万石を与える」事を条件に寝返るよう説得している。
しかし信繁はこれを断った。
すると家康は再び信尹を使者として差し向け、今度は「信濃一国を与える」と説得に出た。
これを聞いた信繁は「この信繁、一万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」と再びはねのけたという。

大坂夏の陣

翌年の大坂の役では、道明寺の戦いにおいて、伊達政宗隊の先鋒を銃撃戦の末に一時的に後退させた。
これら度々の勝ち戦により、次第に徳川軍も真田軍への攻撃を自重せざるを得なくなり、信繁はそれを見て堂々と大坂城に一時撤収した。
その撤収の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。

ただし道明寺の戦いでは先行した後藤基次勢が真田勢の援軍が駆けつける前に壊滅し、基次は討死している。
この戦いの前に家康は基次に寝返りを打診していたため、基次に対して大坂城内では謀反の噂が流れた。
そのため基次は死を決して先鋒を勤めたと言われる。
またこのときの指揮権は信繁にはなく、大野治長が持っていた。
そのため基次の戦死の責任は信繁だけにあるとは言えないが、真田勢の行軍の遅れが後藤勢壊滅の一因であるとも、また基次の心情を察し敢えて救援を遅らせたとも言われる。
本当は当日の濃霧のため道に迷い所定の時間に付く事ができず仕方なく後藤基次が戦いを始めた。

豊臣軍は後藤基次や木村重成などの主だった武将が討死し、疲弊していった。
信繁は士気を高める策として豊臣秀頼自身の出陣を求めたが、側近衆や母の淀殿に阻まれ失敗する。
豊臣氏の敗色が濃厚となる中、信繁は最後の作戦を立てる。
それは豊臣方右翼として真田軍、左翼として毛利勝永軍を四天王寺・茶臼山古墳 (大阪市)付近に陣形し射撃戦と突撃を繰り返し家康の陣形に対し本陣を孤立させ、明石全登の軽騎兵団を迂回させ家康本陣を横撃させるというものだった。
しかし毛利隊の前面諸将が勝手に射撃を開始してしまったため、作戦を断念せざるを得なくなった。
そして正面から徳川家康の本陣めがけて決死の突撃を敢行した。
この突撃は真田勢のみではなく、左翼から攻める毛利勝永、明石全登らも奮闘し家康本営に肉薄した。
勝永は本多勢を蹴散らし、何度か本営に突進したといわれる。

真田勢は越前松平勢を突破し、家康の本陣まで攻め込み、屈強で鳴らす家康旗本勢を蹴散らした(ちなみに、本陣に攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目と言われ、真田勢の凄まじさに家康は自害を覚悟したほどだったという。これにより、奇しくも家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる)。

しかし、最終的には数で勝る徳川軍に追い詰められ、ついに四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で、味方の傷ついた兵士を看病していたところを襲われ、越前松平勢鉄砲組の西尾仁左衛門にその首を授けた。
享年49。

信繁討死の翌5月8日、豊臣秀頼・淀殿母子は大坂城内で自害、太閤秀吉の誇った大坂城も落城し炎上。
ここに大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わった。
その後大坂では、信繁は生きており、秀頼・淀殿を助け、紀州へと逃げ落ちたという噂が流れたと言われいるが、噂では薩摩の島津家領内に逃隠れし墓もある(子孫もありとの噂も)。
実は秀頼と淀の方の遺体あったがどれが秀頼、淀の方の遺体(首)か分からず首実検が出来なかった。

墓所

真田信繁の墓所(正確には供養墓・供養塔)は、以下の複数が確認されている。

龍安寺塔頭大珠院(京都府京都市)

信繁の七女おかねの夫石川貞清(宗林)は、竹林院を始めとする信繁の遺族を援助したことでも知られ、龍安寺に信繁夫妻の墓を建立した。
この墓は鏡容池の弁天島に現存するとされるが、非公開となっている。

田村氏墓所(宮城県白石市)

田村家出身の片倉定広(田村清顕の甥田村宗顕の子)に嫁いだ五女・阿昌蒲の縁で、田村家の墓所に墓が建立された。

長国寺(長野県長野市)

松代藩真田家の菩提寺。
信繁や嫡男大介の供養塔がある。

孝顕寺(福井県福井市)

信繁の首を取った越前松平家の家臣西尾仁左衛門が、自家の菩提寺に首塚を建立。
実際に首が埋葬されたかは不明(真田一族の奪還を恐れ、別の場所ともいわれる)。

妙慶寺(秋田県由利本荘市)

四女・御田姫(顕性院)が真田家(信繁系統)の菩提寺として建立した寺。
墓はないが位牌が残されている。

一心院(秋田県大館市)

大坂の陣では死なずに、島津氏を頼って鹿児島に落ち延びたとする伝説に由来する。
島津家が徳川に恭順したため、その後は各地を放浪、寛永2年(1625年)から四女御田姫の嫁ぎ先の実家佐竹氏に庇護され大館に住み、寛永18年(1641年)に75歳で没したと伝えられる(嫡男大介の墓もある)。

大坂夏の陣における信繁への評価

島津忠恒(ただし、この戦いに島津氏は参加しておらず、伝聞から信繁の奮戦ぶりを推測して話した)

「五月七日に、御所様の御陣へ、真田左衛門仕かかり候て、御陣衆追いちらし、討ち捕り申し候。」
「御陣衆、三里ほどずつ逃げ候衆は、皆みな生き残られ候。」
「三度目に真田も討死にて候。」
「真田日本一の兵。」
「古よりの物語にもこれなき由。」
「徳川方、半分敗北。」
「惣別これのみ申す事に候。」

細川忠興

「左衛門佐、合戦場において討ち死に。」
「古今これなき大手柄。」

大久保忠教(彦左衛門)

「三方ヶ原にて一度御旗の崩れ申すより外、後先の陣にも御旗の崩れ申す事なし。いわんや七十に成らせられて、収めの御ほうどうの崩れては、何の世に恥をすすぎ成さるべきか」

「大坂御陣覚書」

「真田は味方の諸軍乱走るも機を屈せず、魚鱗に連なりて駆け破り、虎韜に別れては追い靡き、蜘蛛手十文字に掛け破らんと、馬の鼻を双べて駆け入り、其の速かなるは疾雷の耳を掩ふに及ばざるが如し。」

「翁草」

「真田は、千載人口に残る奇策幾千百ぞや。」
「そもそも信州以来、徳川に敵する事数回、一度も不覚の名を得ず、徳川の毒虫なりと世に沙汰せり、当世の英雄真田を非ずして誰ぞや。」
「絶等離倫、一世の人物、今にいたりて女も童もその名を聞きてその美を知る。」

「北川覚書」

「車軸を流す雨の如く候へども、真田が備、一人も散らず真丸に堅り、とてものがれぬ処にて候間。」
「一寸も後をみせ候なと、皆々念仏を唱へ、死狂に懸り候。」

「元和先鋒録」

「真田左衛門合戦の様子奇怪の節多し、此の日初めは茶臼山に出、夫より平野口に伏兵を引廻し、又岡山に出て戦ふ。」
「後に天王寺表に討死す。」
「其の往来抜け道の跡、今に相残り候旨、実にしやかに書き記し候。」

「山下秘録」

「家康卿の御旗本さして、一文字にうちこむ、家康卿御馬印臥せさすること。」
「異国は知らず、日本にはためし少なき勇士なり、ふしぎなる弓取なり真田備居侍を一人も残さず討死させる也。」
「合戦終わりて後に、真田下知を知りたる者、天下に是なし。」
「一所に討死にせるなり。」

真田軍の名は不朽のものとなり、武勲にあやかろうとした諸将が信繁の首から遺髪をこぞって取り合いお守りにしたと言われる。

人物

旗印である六文銭は、六文銭を表しているといわれている。
六文銭とは、亡くなった人を葬る時、棺に入れる六文の銭の事で、三途の川の渡し賃のことである。
これを旗印にすることは「不惜身命」(ふしゃくしんみょう:仏法のために身命をささげて惜しまないこと)を意味するといわれている。

信繁の人柄は、兄・信之の言葉によると柔和で辛抱強く、物静かで怒る様なことは無いという、およそ勇猛な武将のイメージとはかけ離れたものであったようである。
また、信之は『幸村君伝記』において「幸村は国郡を支配する本当の侍であり、それに対して我らは見かけを必死に繕い、肩をいからしている道具持ちという程の差がある。」とも語っている。
そのためか大坂の役大坂夏の陣では「浪人の分際で」と罵られたほど。

一般には江戸時代になってから、講談等でその名将ぶりが知られる事になるが、徳川に敵対したにも関わらず幕府側はそれを敢えて禁ずることはなかった。
これに関しては、「主君に最後まで忠義を尽くす」という筋立てが幕府に容認されたとする説の他に、二代将軍となった秀忠の関ヶ原での遅参を誤摩化すため、「真田親子が名将の方が都合が良かった」とする少々穿った見方なども存在する。

家康は大坂方の諸将の中で最も活躍した信繁に脅威を覚え、大坂冬の陣の後には信繁の兄真田信之に命じて信濃一国40万石で彼を調略しようとしているが、この破格の条件に興味を微塵も見せず豊臣家への忠誠を最期まで貫き通している(一説には叔父真田信尹に命じて上田10万石とも)。

信繁の忠臣説には異を唱える者もある。

信繁と徳川氏は「不倶戴天の敵」であったといわれるが、これは後世の俗書や小説等による影響である。

関ヶ原に西軍として参戦し、改易され、復活を遂げた数少ない大名である立花宗茂や丹羽長重も、本領に復帰する前に与えられた所領は宗茂が陸奥棚倉1万石、長重が常陸古渡1万石であった。
宗茂や長重より知名度も実績も劣る信繁が信州40万石を与えられる可能性は低い。
信繁本人も真に受けなかったと推察される。

家康からの破格の条件を断ったのが、豊臣家への忠誠のためであったかについては実証することはできず、逆に信繁の兄や叔父らが徳川家の臣下であることを根拠に「信繁は徳川方の間者である」という豊臣家臣からの誹謗中傷もあったと言われている。

既に触れたように幸村は後の時代に創られた名前のため信之が“信繁”ではなく“幸村”と言う訳もなく、後世の脚色であると思われる。
後世の真田関係の資料は信繁を「幸村」として神格化させる動きがあり、真田信繁関係の資料の信憑性には疑問がある。

九度山に無名のまま朽ちる筈だった信繁を、将帥として召しだしてくれたことに感謝はあるだろうが、豊臣譜代の臣でもないのに、そこまで豊家に恩を感じていたか疑問である。

真田信繁の方が実は長男で信之が実は次男なのだが、信繁の母の方が身分が低いので長男と次男を入れ換えられたという異説がある。
源三郎、源二郎の順序入れ替わりの謎もその傍証の一つとされる。

徳川家康があの世に行ったら酒を飲み交わしたい人物であると言ったと逸話がある。

信繁の愛槍は、「十文字槍」というもので、両鎌槍を強化してつくられた細めの槍であった。
槍の柄は朱色に塗られ、真田の赤揃えに恥じぬ名槍だった。

大阪の陣での信繁への高評価はやや不甲斐なかった徳川勢を遠まわしに擁護するためという、うがった見方もある。

系譜

信繁には多くの子がいたが、真田氏における真田信繁家としては、嫡男の大助(真田幸昌)が生まれた時には既に九度山へ幽閉されており、幸昌は大坂城にて子を作らぬまま自害、この系統は絶えた。

次男の大八(真田守信)は、伊達家重臣で後に三女阿梅の夫となる片倉重長の元で姉達とともに保護され、後に元服し片倉守信となった。
以降、公式に残る信繁唯一の家系・仙台真田家として現在も続く事となる。
なお、片倉氏姓から真田姓に復したのは守信の子・真田辰信の時である。

真田幸村

真田幸村(さなだ ゆきむら)とは江戸時代以降に流布した、小説や講談における真田信繁の通称。
「第一次上田合戦」(真田信繁はこの戦いに参加した証拠が無く、上杉家に人質として入っていた可能性が高い)、「関ヶ原の戦い」の前哨戦である「第二次上田合戦」で、真田十勇士等の忍者軍団を使い大活躍し、その後「大坂の役」でも奮戦するが、大坂夏の陣で力尽き討死する。

伝説

元和元年5月7日、享年49で死去したものとされるが、幸村には影武者が何人も居たとの伝承があり、そのため大坂城が落ちるのを眺めつつ、豊臣秀頼を守って城を脱出し、天寿を全うしたという俗説がある。

「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたり鹿児島へ」というわらべ歌が流行したという。

「真田三代記」

『真田三代記』は江戸元禄期の歴史小説であり、真田昌幸・幸村・大助の三代、親・子・孫が徳川を相手に奮闘する物語である。
後に生まれる真田十勇士中、猿飛佐助と望月六郎をのぞいた八勇士が登場。
これが十勇士の原型とみられ、真田もの講談の流布とともに真田人気に繋がった。

土橋 治重による現代語訳がPHP文庫から刊行されている。

真田十勇士

真田幸村の忍者として著名な「真田十勇士」は、「真田三代記」や「難波戦記」を底本として、大正時代に一世を風靡した立川文庫の中の一冊·「猿飛佐助」が大好評を博し、その総集編のタイトルとして使われたのが始まりとされる。
類似ケースに「尼子十勇士」がある(但し、資料によって弱干のバラツキが見られる。)

主に上がる名前は猿飛佐助・霧隠才蔵・根津甚八・由利鎌之助・筧十蔵・三好政康・三好政勝・望月六郎・海野六郎・穴山小助(息子の真田大助を入れるケースもある)。

いわゆる現在の幸村伝説と彼をとりまく十勇士の顔ぶれが確立したのは、明治末から大正初期にかけて子どもの人気を集めた『立川文庫』からである。
猿飛佐助や霧隠才蔵は架空とも言われるが、海野六郎·根津甚八·望月六郎の姓のルーツは真田一族配下の滋野一党の姓と同一であり(根津に関しては、浅井長政の忘れ形見とされる浅井井頼がモデルという説もある)、また三好兄弟はそれぞれ三好政康・三好政勝がモデルと言われている(政勝は家康側として参陣していたが)。

[English Translation]