税所篤 (SAISHO Atsushi)

税所 篤(さいしょ あつし、文政10年11月5日 (旧暦)(1827年12月22日)- 明治43年(1910年)6月21日)は、日本の武士、官僚。
子爵。
通称は喜三左衛門、長蔵。
号は巌舎。

来歴

薩摩藩士・税所篤倫の二男として生まれる。
若くして国学者・平田篤胤の門下となり、藩主島津斉彬に認められて勘定所郡方に任じられた。
改革派である精忠組に加わり、西郷隆盛や大久保利通、吉井幸輔らと親交を深めた。
禁門の変以後は、西郷の片腕として活躍する。
第一次長州征伐では長州藩の降伏における処理に務めた。
戊辰戦争では大坂にあって新政府軍の軍事費などの財政処理を務めた。

新政府では内国事務権判事、河内県・兵庫県・奈良県・堺県の各県令・知事を歴任する。
1877年の西南戦争では、明治天皇の奈良行幸における事務や吉野宮造営の建議などを行っており、西南戦争に関与しておらず罪に問われることはなかった。

古美術の鑑定を得意としていたことから、正倉院御物の整理掛に就任。
のちに霧島神宮の宮司、枢密顧問官を務めた。
1887年、維新の功により子爵を授けられる。
1910年、死去。
享年84。

備考

西郷が月照と共に入水自殺を図った際、奇跡的に助かった西郷の看病を務めた。
文久2年(1862年)には、奄美大島流罪の西郷召還を大久保とともに島津久光に嘆願している。

堺県令時代に浜寺公園内の松を伐採して開発しようとする。
だが、大久保に反対する歌を詠まれて断念した。

子に篤一、篤三、岩佐ナミがいる。
なお、篤一の次女・サワは大久保の六男・大久保駿熊に嫁ぐ。

実兄は吉祥院乗願で、囲碁を通じて大久保を島津久光に紹介したことで知られる。

[English Translation]