続守言 (SHOKU shugen)

続 守言(しょく しゅげん、生没年不明)は、7世紀後半(飛鳥時代後期)に唐から倭(日本)へ帰化した渡来人。
持統天皇の音博士。

660年、唐によって百済が滅亡したが、百済遺臣の鬼室福信らは国家再興のため反乱を起こし、唐人の続守言・薩弘恪らを補えた。
鬼室福信らは倭国に対し、人質となっていた百済王子扶余豊璋の帰国と、軍事支援を求めた。
倭国はこれに応じて豊璋を送り出し、福信はその交換として続守言・薩弘恪らを倭に送ったという。
筑紫国に送られた続守言らは、天智天皇2年(663年)2月頃、倭の都へ護送された。
彼ら俘虜100余名は近江国に住まわされ、その後美濃国不破郡・方県郡両郡に移された。

続守言・薩弘恪はその後、朝廷に仕え、持統天皇3年(689年)には稲を賜り、同5年(691年)9月には銀20両を賜っている。
『日本書紀』にはこのとき続守言・薩弘恪は音博士であったと記されている。
これは儒教の経書を読む際に、当時の唐語(漢音)による音読法を教えるための役職であった(詳細は音道を参照)。
翌年12月にも水田4町を賜っている。
このほか、飛鳥浄御原令の選定や、国史の編纂事業にも関わったと考えられている。
没年は不明。

[English Translation]