織田信高 (ODA Nobutaka)

織田 信高(おだ のぶたか)は、安土桃山時代の武将。
織田信長の七男。
母は高畑源十郎の娘・お鍋の方(興雲院)と言われるが異説もある(生母について)。
妻は佐々成政の娘・光秀院。
子に織田高重。
官位は従五位左衛門佐。
幼名は小洞。
通称は藤十郎。

本能寺の変

天正4年(1576年)、織田信長の七男として生まれる。

天正10年(1582年)、本能寺の変において父・信長が死去したときはまだ幼年であったため、氏家行広に預けられて養育を受けた。
その後、豊臣秀吉の家臣となり、1591年には近江国神崎郡 (滋賀県)山上内で1060石の所領を与えられ、黄母衣衆に列せられる。
羽柴氏の名乗りも許され羽柴藤十郎と称した。
1595年に愛知郡 (滋賀県)にて粟野秀用の旧領1000石を加増され2060石となった。

生母について

一般的には信長とお鍋の方の間の長子とされているが、これを裏付ける証拠は小倉氏の旧領である山上に所領を与えられたことなど少ない。

お鍋の方が近江の実家に隠棲した際伴ったのは同母弟とされる織田信吉であり、お鍋の方の夫小倉実澄の愛知郡の所領も信吉に与えられていて、お鍋の方と信高の繋がりは、当時の史料からは確認できない。
また信吉よりも出生が後でありながら織田家中においては席次が上にきており、お鍋の方とは別の上位の側室が生母の可能性も示唆されている。
この側室については存在を含め一切不明であるが、後に信高が西美濃三人衆の氏家直元の次子である氏家行広に預けられていること、直元長男の氏家直重が織田信孝と秀吉の戦いに際して信孝についた折、行広と共に信高も宇都宮で蟄居していることから、氏家氏か氏家氏ゆかりの西美濃の有力国人の娘である可能性が高い(蟄居するということは、縁者として連座したと解釈できる)。
信高自身の正室の生家である佐々氏も尾張国北西部の春日井郡であり、西美濃とはそれほど離れていない。

当時は佐々成政の没落前(ことによると、信孝の切腹前)でもあることから、信高生母の一族と本領が近い佐々氏が秀吉との対抗上地縁があり、生母の身分も高い信高と縁組して織田家の外戚となろうとしたと考えると自然であろう。

このほか、幼名との繋がりから織田信秀(大洞)と同腹との推測もあるが、信秀の生母は稲葉氏との推測が現在有力であり、また信秀生母は秀吉の側室となったと言われ、この説が正しいとすると信秀は秀吉の一族として羽柴姓を許されたほか侍従、2~5万石級の大名に昇進しているのに対して信高は羽柴姓を許されているのみで官位は従五位下佐衛門佐、所領も2000石どまりであることの説明がつかないことから、同腹である可能性は低いと思われる。
信孝、成政と縁故が深い側室の子とすると、豊臣政権時代の冷遇、江戸開幕後に高家に取り立てられ厚遇されたことの説明がつく(佐々成政は秀吉の覇権確立期にはさらさら峠越えなど、家康に接近する姿勢を取っていた)。
大洞、小洞ともに、美濃の地名であることから、それぞれの生母の出身に由来したとも考えられる。

関ヶ原合戦

『寛政重修諸家譜』によれば、1600年の関ヶ原の戦いに際し、弟織田信貞と共に東軍を支持したものの、本戦に間に合わず、凱旋中の徳川家康に拝謁したという。
しかし、『関原軍記大成』などでは、弟の織田信吉・信貞らとともに西軍に属し、戦後に謝罪、赦免されたという。
おそらくは後者が正しく、弟信吉と同様に西軍に所属し、失領したものと思われる。
もっとも、本戦に参加したという記録はない。

慶長7年(1602年)12月12日、死去。
享年28。
墓地は京都・大徳寺総見院にある。

子孫

1616年1月、信高の長男織田高重は新たに幕臣として召し出されて、近江国・安房国に2000石を与えられた。
高重の孫織田信門は高家となり、以後幕末まで高家旗本として続いた。

また、2005年3月に行われたフィギュアスケート世界ジュニア選手権で優勝した織田信成 (フィギュアスケート選手)は、信高系の旗本織田家の末裔で、信長から数えて17代目の子孫とされている(ただし、途中で養子が入っているため、血筋の上では信高の直系ではなく信雄の子孫となる)。
2006年のトリノオリンピックでは日本代表の有力候補となった。

[English Translation]