織田敏広 (ODA Toshihiro)

織田 敏広(おだ としひろ、織田敏廣)は、戦国時代 (日本)の武将。
織田郷広の嫡男。
尾張国上四郡の守護代。
「伊勢守家」(岩倉織田家)の祖とされる。
従兄弟とされる先代織田久広と同一人物とされ、初め久広(ひさひろ)と名乗り、のち尾張国守護・斯波義敏の偏諱を受け、敏広と改めたとされる(異説あり)。

生涯

岩倉城を本拠とした織田敏広の一族「織田伊勢守家」(岩倉織田氏)は元々織田一門の宗家の家柄であった。
しかしやがて、後に清洲城に拠点を置いた分家筋の小守護代「織田大和守家」(清洲織田氏)の織田敏定が次第に勢力を拡大して台頭するようになり、新たな尾張守護として斯波義廉を擁立して争って行く。

嘉吉元年(1441年)、『建内記』によると父とされる先代郷広が寺社領・本所領を横領して、逐電したため、翌、嘉吉2年(1442年)頃には先代郷広に代わり、久広(敏広か?)が尾張国守護代となったとされる。
8代将軍足利義政義政により、郷広が再任を計ろうとした。
そのため、宝徳3年(1451年)頃、主家・斯波氏に命じられ、越前国で郷広を自害に追い込んだ。
文正元年(1466年)敏広の娘と婚約していた山名入道(名不評)の要請で、敏広は弟の織田広近とともに上洛。

翌年の応仁元年(1467年)の応仁の乱が起こると、新たな尾張守護として斯波義廉を擁立して、山名持豊率いる西軍側に付く。
文明 (日本)7年(1475年)11月、京都から主君・義廉を伴って、尾張国へ下国し、尾張国中島郡にある尾張国守護所の下津城に入城した。

翌年の文明 (日本)8年(1476年)、岳父斎藤妙椿とともに家臣筋「大和守家」(清洲織田氏)の織田敏定と戦った。
敏広は敗れて、下津城は落城したため、山田郡の国府宮に逃れた。
しかし、後に敏広が巻き返して、敏定を尾張から一時的に追放する。

文明 (日本)10年(1478年)、敏定が幕府から新たに尾張守護代を任じられ、斯波義廉とともに織田氏嫡流であった織田敏広は兇徒とされた。
そして同年の10月12日 (旧暦)、尾張に下向した敏定に尾張国春日井郡にある新たな守護所である居城清洲城を奪取された。
同年の12月 (旧暦)、妙椿の後ろ盾を得て、敏広は清洲城奪還に乗り出し、敏定と戦って清洲城を囲んだ。
再三の幕府の介入で、清洲城を断念して織田敏定と和睦し、尾張国は「織田大和守家」と「織田伊勢守家」の両織田氏による共同統治となった。
尾張上四郡(春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中島郡のこと、最初「伊勢守家」は葉栗郡・丹羽郡と山田郡(のち春日井郡、中島郡へ分割編入)の大半と春日井郡・海西郡と那古野を除く愛知郡 (愛知県))の守護代となる。

翌年の文明 (日本)11年(1479年)、尾張国丹羽郡に岩倉城 (尾張国)を築城し、岩倉城を居城とした。
2年後の文明 (日本)13年(1481年)3月 (旧暦)、「大和守家」との和睦が崩れ、敏定と戦って敗れた。
のち病死。(3月以前に戦死とも)。
家督は弟広近の子で養子の千代夜叉丸(織田寛広)が継いで、岩倉織田氏として続いた。

[English Translation]