藤原兼通 (FUJIWARA no Kanemichi)

藤原 兼通(ふじわら の かねみち、延長 (元号)3年(925年) - 貞元_(日本)2年11月8日 (旧暦)(977年12月25日))は、平安時代中期の公卿。
謚は忠義公。
父は藤原師輔。
母は藤原盛子。
兄弟に藤原伊尹、藤原兼家ら。
子に藤原顕光、藤原朝光、藤原正光、藤原こう子らがある。
堀川殿と称された。
実力者藤原師輔の二男として有利な立場にあったが、従来から激しく憎んでおり、長兄の摂政伊尹が早世したとき、兼通の妹で円融天皇の生母だった中宮安子の遺命により関白に抜擢され、それからことごとく妨害した。
兄弟は最後まで不仲で、兼通は重病で危篤にありながら、無理に参内して除目を行い兼家を降格させて亡くなった。

生涯

村上天皇の実力者右大臣藤原師輔の二男に生まれる。
天慶6年(943年)従五位下に叙爵。
同9年(946年)周防国受領に任ぜられる。
天暦末に左近衛少将に遷り、春宮亮を兼ねる。
康保4年(967年)蔵人頭となる。

師輔は村上天皇に長女の安子を入内させ、安子は寵愛深く、後に即位する憲平親王(冷泉天皇)、守平親王(円融天皇)を生み、伊尹、兼通、兼家の兄弟は極めて有利な立場にあった。

康保4年(967年)、村上天皇が崩じ、冷泉天皇の即位とともに蔵人頭を弟の兼家と代わる。
安和2年(969年)参議に補せられ、従三位に叙す。
弟の兼家の出世はこれを上回り、大納言に右近衛大将を兼ねていた。
一説には息子の正光が源高明の娘「中姫君」を娶っていたため(『栄花物語』など)、安和の変の際に兄弟の中で唯一高明派とみなされて冷遇されたとする説がある。
兼通はこれに失望して出仕を怠るようになる。
冷泉天皇に次いで即位していた円融天皇も伯父の兼通を好まなかった。
天禄2年(971年)長兄の伊尹は摂政太政大臣に昇る。
翌天禄3年(972年)、兼通はようやく権中納言に進んだ。

兼通は摂関たらんと欲していたが、弟の兼家に先に奪われることを恐れていた。
そのため、村上天皇の頃に、存命中だった妹の中宮安子から「将来、摂関たることあれば、必ず兄弟の順序に従いなさい」との書付を受け、兼通はこの書を懐に入れて肌身離さず持っていた。

天禄3年(972年)、長兄の摂政伊尹が危篤になると、兼通はこれに乗ぜんと参内した。
円融天皇は鬼の間に居たが、平素から兼通を疎んじており、その姿を見ると別の間へ移ろうとした。
兼通が「奏上したきことがあります」と言うと、天皇は座に復し、兼通は書を奉った。
その手跡は天皇が幼い頃に亡くなった母后のものであり、天皇はその遺命に従うこととした。

まず、兼通に内覧を許し、次いで権中納言から一挙に内大臣に引き上げて関白宣下した(なお、内覧から関白宣下を受けた時期については、天禄3年説と天延2年(974年)説がある)。
藤原済時は大納言を経ないで兼通が内大臣に就任したことやこの人事を行った円融天皇、更にはこれを止めなかった藤原頼忠を強く非難している(『済時記』)。
天延2年(974年)には藤原頼忠に代わって藤氏長者となし正二位に進め、太政大臣に任ずる。
同3年(975年)従一位に叙した。
貞元_(日本)元年(976年)内裏で火事があり、天皇は兼通の堀川第に移り、時の人はこれを「今内裏」と呼んだ。

兼通と弟の兼家は非常に不仲で、兼家の昇進はまったく止められてしまい、異母弟の藤原為光を筆頭大納言として兼家の上位に就ける程であった。
さらに、兼通が娘の藤原媓子を円融天皇の女御に入れ、次いで中宮としていた一方で、兼家は冷泉上皇へ長女の藤原超子を女御として入れていたが、次女の藤原詮子も円融天皇に入内させようとしていた。
兼通はこれを激しく非難して妨害した。
すると、円融天皇は兼家が詮子を入内させないのは超子が生んだ子に皇位継承が行われるのを望んでいると疑って兼家を嫌い始めて兼通と結ぶようになっていった。

兼家の東三条第は堀川第に隣接していたが、東三条第に客が来ると兼通はこれを罵り、人々は恐れて夜に忍んで東三条第を訪ねるようになった。

超子が冷泉天皇の皇女の居貞親王(後の三条天皇)を生むと、ますます不機嫌になり、円融天皇に讒言した。

兼通は右大臣の藤原頼忠と仲がよく、以前藤氏長者を譲って貰ったこともあって、自分の後継にと考えていた。
一方、左大臣源兼明は太政官の筆頭として、兼通と伍する政治力を有していた(太政大臣は太政官の実務に携われない慣例であり、左大臣が事実上の最高責任者であった)。
このため兼通は頼忠を太政官の最高責任者である一上に任じて兼明の政治的権限を剥奪した上で、兼明を親王に復帰させて(親王は政務に携われない慣例だった)、空いた左大臣を頼忠に代えさせた。

貞元2年(974年)10月、兼通は重い病に伏した。
家人が東三条第から車がやって来ると報じた。
兼家が見舞いに来るのかと感じ入った兼通は、周囲を片づけさせて来訪を待った。
だが、兼家の車は門前を通過して内裏へ行ってしまった。
兼家は兼通がもう臨終だと思い、早速天皇に後任を奏請するつもりだったのである。
これを知った兼通は激怒して起き上がり、四人に支えられながら病をおして参内した。
ちょうど、兼家が天皇に奏請していた最中に兼通が現れ、驚愕した兼家は他所へ逃げてしまった。

兼通は最後の除目を行うと宣言し、左大臣頼忠をもって自分の後任の関白とした。
その上で、兼家の右近衛大将の職を解き治部卿へ降格してしまった。
天皇もその気魄に逆らうことができなかった。
兼通は居並ぶ公卿たちを顧みて、右近衛大将を欲する者はないかと問う。
公卿たちは言葉も出なかったが、中納言藤原済時が進み出て求め、右近衛大将に任じられた。
(『大鏡』)

それから程無く、兼通は死去した。
享年53。
正一位を贈られ、忠義公と諡された。

兼家は暫く不遇だったが、やがて政界に復帰して権力を握り、懐仁親王(一条天皇・円融と詮子の子)を即位させて外戚となり摂政に任じられ権勢をふるった。
結局、兼家の家系が摂関を独占して最も栄えることになる。

官歴
※日付=旧暦
943年(天慶6)1月7日、従五位下に叙位。

946年(天慶9)2月20日、周防権守に任官。
7月24日、昇殿を許される。
9月16日、侍従に転任。

948年(天暦2)5月29日、左兵衛佐に遷任。

950年(天暦4)1月7日、従五位上に昇叙し、左兵衛佐如元。

952年(天暦6)1月16日、大和権介を兼任。

955年(天暦9)2月23日、紀伊権介を兼任し、大和権介を去る。
7月29日、左近衛少将に転任。
紀伊権介如元。

956年(天暦10)1月27日、近江権介を兼任し、紀伊権介を去る。

957年(天暦11)11月27日、正五位下に昇叙し、左近衛少将如元。

958年(天徳 (日本)2)7月29日、禁色を許される。
10月27日、中宮(藤原師輔の娘、藤原安子。村上天皇の中宮)亮を兼任。

960年(天徳4)1月7日、従四位下に昇叙す。
1月24日、中宮権大夫に任官。
9月4日、春宮(のちの冷泉天皇こと、憲平親王)亮を兼任。

963年(応和3)9月4日、美濃権守を兼任。

964年(応和4)4月29日、中宮権大夫を止む。

967年(康保4)1月20日、内蔵頭に遷任。
1月25日、蔵人頭を兼帯。
5月25日、蔵人頭を止め、昇殿も止む。
6月26日、昇殿を許される。
9月1日、東宮昇殿を許される。
10月11日、従四位上に昇叙。

968年(安和元)11月23日、正四位下に昇叙。

969年(安和2)1月23日、参議に補任。
閏5月21日、宮内卿を兼任。
9月27日、従三位に叙し、参議・宮内卿如元。

970年(安和3)1月25日、讃岐権守を兼任。
1月28日、美濃権守を兼任し、讃岐権守を去る。

972年(天禄3)閏2月29日、権中納言に転任。
11月27日、関白宣下。
内大臣を兼任。

973年(天禄4)1月7日、正三位に昇叙し、関白・内大臣如元。

974年(天延2)1月7日、従二位に昇叙し、関白・内大臣如元。
2月8日、藤原氏長者宣下。
2月28日、太政大臣宣下。
関白如元。

975年(天延3)1月7日、従一位に昇叙し、関白・太政大臣如元。

977年(貞元_(日本)2)10月11日、関白・太政大臣を辞す。
11月4日、准三宮宣下。
11月8日、薨去。
享年53。
11月20日、贈正一位。
遠江国に封ぜられる。

[English Translation]