藤原定能 (FUJIWARA no Sadayoshi)

藤原定能(ふじわら の さだよし、久安4年(1148年) - 承元3年8月22日 (旧暦)(1209年9月22日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。
藤原北家藤原道綱流、讃岐三位藤原季行の次男。
正二位・権大納言。
樋口大納言と号す。

仁平2年(1152年)従五位下に叙爵。
以後、播磨国・加賀国両国の権介や丹後国守を歴任する。
専ら後白河院の近臣として活動し、安元2年(1176年)には院の推挙により蔵人頭に任官する。
これは位階上位にあった藤原雅長らを凌駕する異例の人事であった。
定能と義兄弟の関係にあった九条兼実さえも「希代」のことと評した(『玉葉』12月5日条)。
治承2年(1178年)には高倉天皇の石清水八幡宮及び賀茂神社への行幸において行事を務めた。
その功により同5年(1181年)には従三位に叙せられる。
またこの間、治承3年(1179年)の治承三年の政変においては、院近臣の一人として左近衛権中将の職を解任されている。
しかし、養和2年(1182年)には還任している。
寿永3年(1184年)権中納言、文治5年(1189年)には中納言と昇進。
最終的には正二位・権大納言に至り、道綱流では最も高位に昇った人物となった。
建久9年(1198年)に辞職。
建仁元年(1201年)に出家し、法名を定阿と称した。

その子孫は二条家や平松家として続いたが、中世に至り断絶している。

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