藤原実頼 (FUJIWARA no Saneyori)

藤原 実頼(ふじわら の さねより、昌泰3年(900年)-天禄元年5月18日 (旧暦)(970年6月29日))は、平安時代中期の公卿。
小野宮殿と称す。
有職故実に通じ、小野宮流を創始した。

藤原忠平の長男。
母は宇多天皇の皇女源順子。
幼名は牛養(うしかい)。
源能有の女源昭子を母とする藤原師輔・藤原師氏・藤原師尹らは異母弟にあたる。
子に藤原敦敏・藤原頼忠・藤原斉敏ら。

摂政関白を歴任した藤原忠平の長男として順調に栄達し、村上天皇のときに左大臣として右大臣の弟師輔とともに朝政を指導して天暦の治を支えた。
だが、後宮の争いでは師輔に後れをとり外戚たる事ができなかった。
冷泉天皇が即位すると、その狂気のために関白職が復活し実頼が任じられた。
次いで円融天皇が即位すると摂政に任じられている。

生涯
関白忠平の長男として生まれる。
延喜15年(915年)正月20日、16歳のときに元服し、翌21日に叙爵(従五位下)。
この叙位は、宇多法皇の口添えによって実行されたと『醍醐天皇御記』にある。
その後、数か国の国司や武官を経て、延長 (元号)8年(930年)に蔵人頭となる。
朱雀天皇の延長9年(931年)に参議に任じた。
天慶2年(939年)に大納言に任じられ、天慶7年(944年)に右大臣を拝する。
実頼が大納言であった天慶年間に一上の宣旨を蒙っていることが、『台記』や柳原家記録中の『砂巌』などによって分かる。

村上天皇が即位した天暦元年(947年)に左大臣を拝し、同時に弟の師輔は右大臣に任ぜられた。
天暦3年(949年)父忠平薨去のあとをうけて氏長者となる。
実頼と師輔は左右大臣としてともに村上天皇を輔佐し、天暦の治と評された。
実頼は藤原述子を、師輔は藤原安子を村上天皇の女御として入内させ寵を競ったが、述子は皇子を生むことなく死去し、一方、安子は東宮冷泉天皇をはじめ、為平親王、円融天皇を生んだ。
後にこれが双方の家の栄達に決定的な差を生じさせる。
天暦4年(950年)には憲平親王が立太子が決定されたが、『九暦』逸文によれば、これは村上天皇・藤原穏子・朱雀法皇・藤原師輔の密談によって決定され、逆に言えば実頼の知らないうちに決定されていたのである。

康保4年(967年)村上天皇が崩御して、憲平親王が即位した(冷泉天皇)。
冷泉天皇には狂気の病があり、天皇を輔弼する者が必要で、村上天皇時代には長く置かれなかった関白が復活した。、
藤原氏嫡流で長老の実頼が任じられ、同時に太政大臣に補任された。
同じ年に天皇の病気を理由として実頼を准摂政としたが、その宣旨が当時既に死去していた師輔の子である権中納言藤原伊尹・蔵人頭藤原兼家によって準備され、公式に宣旨を発給する任にある実頼の子である左大弁頼忠にすら知らされていなかった。
冷泉天皇は師輔の長女中宮安子が生んだ皇子だが、師輔も安子も既に亡くなっており、師輔の子の藤原伊尹・藤原兼通・藤原兼家たちは未だ若年だった。
よって実頼が関白太政大臣、源高明が左大臣、藤原師尹が右大臣となり、冷泉天皇のもとの台閣が組織された。
実頼は関白ながら外戚ではなく、自らの日記で何かと軽んじられ、外戚伯父にあたる師輔の子たちが跳梁していることを嘆き「揚名関白(名ばかりの関白)」と称している。

天皇の即位礼は通常大極殿で百官を集めて行うべきだが、天皇の病気が案じられ、実頼は異常事に備えるべく内裏内の紫宸殿で挙行させた。
これは彼の功績であると称賛され、以後、即位礼は紫宸殿で行われる例となった。

冷泉天皇に狂気の病がある以上は長い在位は望めず、弟皇子から早急に東宮を定めることになった。
同母弟で年長の為平親王が有力だったが、東宮には守平親王と決した。
これは為平親王の妃が左大臣源高明の娘であり、実頼と師尹が源氏の高明が将来外戚となることを恐れたためであった。
安和2年(969年)失意の高明に突如謀反の嫌疑がかけられ失脚し、大宰府へ流される事件が起きた(安和の変)。
実頼はこの陰謀の首謀者とされているが、弟の師尹または師輔の子の伊尹、兼家を擬定する説もある。

同年、冷泉天皇は譲位し、守平親王が即位した(円融天皇)。
新帝が未だ幼年であったため実頼は摂政に任じられる。
だが、翌天禄元年(970年)に病に倒れ薨去。
享年71。
正一位が追贈され、尾張国に封じ、清慎公と諡号された。

人物
有職故実に詳しく、父忠平の教命を受け(忠平の教命は、実頼が『小野宮故実旧例』として纏めた)、朝廷儀礼のひとつである小野宮流を形成した。
なお、実頼の流派が小野宮流と呼ばれる所以は彼の邸宅名による。
また、和歌に秀で、歌集『清慎公集』があり、『後撰和歌集』等の勅撰集に彼の和歌が採録されている。
ほかに笙・筝の名手として知られ、特に筝は醍醐天皇より学んでいる。

実頼は、日記『清慎公記』(『水心記』ともいう)を著していたことが『小右記』等の逸文によって知られる。
なお、藤原公任が『清慎公記』の部類記を作成する際に書写せず原本を直接切り貼りしたため、部類記収録以外のものは反故になってしまった。
そのため元来の所持者であったと考えられる公任の従兄弟の藤原実資(公任・実資とも実頼の孫)の憤激を買っている(『小右記』寛仁4年8月18日条)。
その部類記も長和4年(1015年)の藤原教通邸焼亡の折に焼失したため現存していない。
また、同じく公任の『北山抄』に度々引用されている「私記」も『清慎公記』のことと考えられている(なお、実頼は父・忠平の『貞信公記』に注釈を加えた際に自己の記述も「私記」と記しているが、『北山抄』引用の「私記」には忠平が第三者として登場することから、実頼自身は『清慎公記』の事も「私記」と称していたと考えられている)。

実頼は摂関を歴任しているものの天皇との外戚関係を結ぶことができず、自らを揚名官(名前だけの名誉職)の関白という意味で「揚名関白」と称している。
また、『栄花物語』が、藤原師輔を、「一(実頼)苦しき二の人(師輔)」と実頼とを比較して評していることから、実頼の政治的実権が乏しく、村上天皇朝においては師輔、冷泉天皇・円融天皇朝においては両天皇と外戚関係にあった師輔の子藤原伊尹・藤原兼家等が実権を掌握したと捉えられている。
しかし、村上天皇朝においては、太政官符・宣旨発給の責任者である上卿(しょうけい)の回数が師輔と較べて多いことや、冷泉天皇即位式の際、通常大極殿で行うべきところを、天皇御悩のために紫宸殿挙行に変更させたことなどを考慮すると、実頼の政治的実権は乏しかったとするのは穏当ではない。
更に議論が必要であろう。

逸話

実頼は私邸の南庭で出る時、常に冠をかぶっていた。
人がこれを怪しんで聞くと、稲荷山が南庭から望まれ、敬して威儀を正しているのだと答えた。
もしも、これを忘れれば袖で頭を隠して邸内に駆け入っていた。
彼の謹直なることかくの如し。
(『大鏡』)

実頼の幼名が「牛養(うしかい)」であったため、実頼の一族は牛車の牛を扱う「牛飼童(うしかいわらわ)」のことを、「牛つき」と呼んだ(『大鏡』)。

異母弟の師輔が長身であったのに対し、実頼は背が低かった。
そのため、糊のきいた強装束を用いていた(『富家語談』)。

平将門追討の将軍であった藤原忠文は、東国到着以前に乱が決着したためそのまま帰京した。
その論功行賞について、「賞の疑はしきはゆるせ」と主張する師輔に対し、実頼は「疑はしきことをば行はざれ」と主張し通して恩賞を出さなかった。
そのため忠文の恨みをかった。
そのため忠文の怨霊によって実頼の子孫が繁栄しなかったといわれている(『古事談』)。

実頼の邸宅小野宮第は、もとは文徳天皇皇子惟喬親王の邸宅であり、双六賭博の質種として得たものであるといわれている(『古今著聞集』)。

実頼は小野宮第の大炊門前に菓子を置き、それを食べる京の民衆の雑談を聞いて世情を知った(『古事談』)。

小野宮第の四足門に菅原道真の霊が来て、実頼と終夜対談したといわれている(『富家後談』)。

師輔の亡霊が生前実頼家の子孫断絶の祈願をしたことを語ったという話を、実頼孫藤原実資が観修僧都から聞き、「骨肉と云ふと雖も、用心あるべきか」と述べた(『小右記』)。

村上天皇の御前で、実頼が、師輔と醍醐天皇皇女康子内親王の密通を暴露した(『大鏡』『中外抄』)。
『栄花物語』に「いとたはしき(淫しき)」と評価される程、師輔が好色であったのに対し、実頼が当時の貴族としては珍しく堅物であったという。
また、『中外抄』(藤原忠実の語録)は、摂関家の言い伝えとして「九条殿(師輔)は、まらのおほきにおはしましければ」という記述がある。

実頼薨去の折、諸人が小野宮第の門前に集まって挙哀した。
(『富家語談』)

官歴

※月日は旧暦。
特に指示のない限り『公卿補任』の記載による。

和歌

勅撰集
後撰和歌集
山里の 物さびしさは 荻の葉の なびくごとにぞ 思ひやらるる
まだしらぬ 人もありける 東路に 我も行きてぞ すむべかりける
松もひき わかなもつます 成ぬるを いつしか桜 はやもさかなむ
鈴虫の おとらぬねこそ なかれけれ 昔の秋を 思やりつゝ
拾遺和歌集
桜花 のどけかりけり なき人を こふる涙ぞ まづはおちける
おくれゐて なくなるよりは 葦鶴の などて齢を ゆづらざりけむ
あな恋し はつかに人を みづの泡の きえかへるとも しらせてしがな
新古今和歌集
をみなへし 見るに心は なぐさまで いとど昔の 秋ぞこひしき
続古今和歌集
池水に 国さかえける まきもくの たまきの風は いまものこれり
新千載和歌集
鶯の やどの花だに 色こくは 風にしらせで しばしまたなむ

私家集
清慎公集
逢ひみても 恋にも物の かなしくは なぐさめがたく なりぬべきかな

[English Translation]