藤原師輔 (FUJIWARA no Morosuke)

藤原 師輔(ふじわら の もろすけ 延喜8年(908年) - 天徳 (日本)4年5月6日 (旧暦)(960年6月7日))は、平安時代中期の公卿。
藤原北家の藤原忠平(ふじわらのただひら)の次男。
異母兄に藤原実頼。
弟に藤原師氏、藤原師尹ら。
子に藤原伊尹、藤原兼通、藤原兼家ら。
別称として、九条右大臣、坊城大臣、九条殿。

有職故実、学問に優れた人物として知られ、村上天皇の時代に右大臣としてこれをよく支えた。
師輔の没後に長女の中宮藤原安子の生んだ皇子が、冷泉天皇、円融天皇としてそれぞれ即位し、師輔の家系は大いに栄えた。

生涯

摂政・関白として長く朝政を執った藤原忠平の二男として生まれる。
『貞信公記』によれば、幼名は大徳。
承平 (日本)・天慶年間(931年-947年)に累進して参議を経て、権中納言となり、醍醐天皇の第4皇女の勤子内親王を降嫁された。

平将門が乱を起こした時、藤原忠文が征東大将軍に任じられたが、交戦する前に乱は平定されてしまった。
朝廷では功が論じられ、兄の実頼は忠文には功がないのだから賞すべきではないと主張した。
これに対して、師輔は「罪の疑わしきは軽きに従い、賞の疑わしさは重きをみるべきだ。
忠文は命を受けて京を出立したのだから、賞すべきである」と論じた。
実頼は持説に固執した。
世論は師輔こそが長者の発言であるとした。

その後、大納言に転じ、右近衛大将を兼ね、従二位に進んだ。

天暦元年(947年)、朱雀天皇が譲位し、村上天皇が即位する。
兄の実頼が左大臣となるに従い右大臣に任じられ、正二位に叙された。
出世のほうは嫡男である実頼が常に先を行くが、「一苦しき二」(上席である兄実頼が心苦しくなるほど優れた次席の者)とまで言われた。
朝廷の実権は実頼よりも師輔にあった。
師輔は村上が東宮(皇太子)の時代から長女の藤原安子を妃に入れており、村上の即位とともに女御に立てられ、よく天皇を助けた。
安子は東宮の冷泉天皇を生んで中宮となり、他に為平親王、円融天皇を生んでいる。
皇太子の外戚となった師輔は朝政を指導し、村上天皇の元で師輔らが行った政治を天暦の治という。

妻の勤子内親王が死去すると、雅子内親王が降嫁される。
雅子内親王が亡くなると、康子内親王を降嫁され、醍醐天皇の内親王を3人も妻にして、皇室とのつながりを強めた。

忠平の教育を受けた実頼と師輔はそれぞれ有職故実の流派を確立。
実頼は小野宮流、師輔は九条流と呼ばれ子孫たちに受け継がれることになった。
これを纏めた書物が『九条年中行事』である。
師輔と同じく故実に通じた源高明と親交があり、師輔の三女と五女が高明に嫁いでいる。
才人であった高明は師輔の後援を受けて栄進する。

また、歌学にも優れ、家集『師輔集(九条右大臣集)』を残している。
天暦10年(956年)、「坊城右大臣師輔前栽合」を主催。
代詠を頼むため紀貫之の家を訪ねた逸話などが『大鏡』に記されている。

天徳 (日本)4年(960年)師輔は病に伏し、当時の慣習に従い剃髪出家しようとするが、村上天皇は勅使を送り、師輔の必要たるを励まし慰留しようとした。
その甲斐なく、病は篤くなり、剃髪し死去した。
享年53。

自身の日記『九暦』、子孫に宛てた遺訓書『九条殿遺誡』を残す。

師輔自身は、摂政・関白になる事はなかったが、村上天皇の崩御後に安子の生んだ憲平親王が即位し(冷泉天皇)、その後は守平親王が続き(円融天皇)、外戚としての関係を強化できた。
後に師輔の家系の全盛につながり、長男の伊尹を筆頭に、兼通、兼家、藤原為光、藤原公季と実に5人が太政大臣に進み、子供たちの代で摂家嫡流を手にすることとなった。

官歴

※主に『公卿補任』の記載による。
日付は旧暦であらわす。

[English Translation]