藤原師長 (FUJIWARA no Moronaga)

藤原 師長(ふじわら の もろなが、保延4年(1138年) - 建久3年7月19日 (旧暦)(1192年8月28日))は、平安時代末期の公卿(太政大臣)。
父は保元の乱の首謀者として有名な左大臣・藤原頼長。
母は源信雅の娘。
兄弟に藤原兼長、藤原隆長、範長らがある。
「妙音院」の号で知られる。

生涯
頼長の息子であったことに加えて祖父・藤原忠実の猶子となったことで、次男でありながら早くから伊予国受領、近衛府などを歴任する。
1151年には14歳の若さで参議となった。
1154年には中納言となる。
しかし1156年、父の頼長が崇徳上皇と手を結んで保元の乱を起こしたため、その連座として師長は官職を剥奪されて土佐国(一説には同国幡多郡)に流罪に処された。
流される直前、養父にあたる祖父・忠実に出家を打ち明けた際に「世の中何が起こるか分からない」と説得されて翻意されたと言う。

1164年、罪を許されて官職に復帰も許されて京都に戻る。
その後は後白河法皇の側近として活躍して権大納言となり、内大臣を経て1177年には従一位太政大臣に昇進する。

だが、近衛基通との確執が表面化すると次第に基通を支援する平家との衝突を招き、1179年11月に平清盛のクーデター(治承三年の政変)が起こると師長は清盛によって解官された上、尾張国に流罪に処された。
その後、師長は出家して理覚と号する。
3年後に帰京を許されて建久3年7月19日に55歳で死去した。

政治家としての業績には乏しいが、父親譲りの学識を持ち(父の在世中に陣定の場で当代随一の碩学と称された父と論争してやり込めたという)、雅楽の歴史においては源博雅と並ぶ平安時代を代表する音楽家として名を残している。
特に筝や琵琶の名手として知られ、更に神楽・声明・朗詠・今様・催馬楽など当時の音楽のあらゆる分野に精通していたと言われている。
『千載和歌集』には、19歳の若さで土佐に流される折に彼の筝を慕って家人になった源惟盛との別れの歌が載せられている他、若い頃に密かに南宋に渡って音楽を学ぼうと志して家を出た師長が須磨の地で村上天皇の霊に押し止められ、代わりに琵琶に秘伝を教えられたという伝説も残されている。

音楽関係の著作に『仁智要録』・『三五要録』などがある。
なお、「妙音院」とは彼が音楽家の守り神と考えられていた妙音菩薩(弁才天)を篤く信仰していたからであると言われている。

師長の死により頼長の系統は絶えた。

[English Translation]