藤原彰子 (FUJIWARA no Shoshi)

藤原 彰子(ふじわら の あきこ(しょうし)、永延2年(988年) - 承保元年10月3日 (旧暦)(1074年10月25日)は、第66代一条天皇の皇后(号は中宮)で、第68代後一条天皇・第69代後朱雀天皇の生母(国母)、女院。
院号を上東門院といい、大女院などとよばれて尊崇された。
女房に『源氏物語』の作者・紫式部、王朝有数の歌人・和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、同じく歌人の伊勢大輔などを従え、華麗な文芸サロンを形成した。

生涯
藤原道長の長女に生まれ、母は左大臣源雅信の女源倫子(964-1053)。
同母の弟妹に、関白太政大臣藤原頼通(992-1074)・同藤原教通(996-1075)と、三条天皇中宮藤原妍子(994-1027)・後一条天皇中宮藤原威子(999-1036)・後朱雀天皇妃藤原嬉子(1007-1025)がいる。
また、右大臣藤原頼宗・権大納言藤原能信・同藤原長家らは異腹の弟である。

入内
長徳元年(995年)、彰子8歳の時に、父道長が内覧の宣旨を蒙り政権を掌握し、それ以後、執政者の長女として世人の嘱目のもとに育つ。
長保元年(999年)2月9日、裳着と同日に従三位。
同年11月1日、8歳年上の従兄一条天皇に入内し、同月7日に女御宣下(同日、中宮藤原定子が第一皇子敦康親王を出産)。
翌年2月25日、皇后に冊立され「中宮」を号した。
『栄花物語』でも「かかやく飛香舎」と称されたその華やかさは先立の皇后定子を凌駕する勢いを持った。
同年末定子が難産で死去した後は名実共に唯一の后となった。
しかしあまりに若すぎたためかなかなか懐妊せず、定子所生の敦康親王を手元に引き取って養育した。

寛弘5年(1008年)9月11日、土御門殿にて第二皇子敦成親王(後一条天皇)を出産。
長年皇子誕生を待望していた父道長の狂喜ぶりは、『紫式部日記』に詳しい。
翌年、さらに敦良親王(後朱雀天皇)を産む。
この二皇子が、道長一家の繁栄の基盤となる。

寛弘8年(1011年)6月13日、死の床にあって一条天皇は従兄居貞親王(三条天皇)に譲位、彰子所生の敦成親王の立太子が決定した。
しかし、帝の真意が長子敦康親王にあったことを体していた彰子は、敦成親王の立太子を後押しした父を怨んだという(『権記』『栄花物語』ほか)。
この説の真偽の程はともかく、彰子は合理的な考え方を持った賢明な女性であったらしく、道長の対立者であった藤原実資からも「賢后」の誉れを得た。

国母へ
長和元年(1012年)2月14日皇太后、寛仁2年(1018年)正月7日太皇太后となる。
この間、長和5年(1016年)正月29日には彰子所生の後一条天皇が即位し、道長は念願の摂政に就任した。
翌年、道長は摂政・氏長者をともに嫡子頼通にゆずり、出家して政界から身を引いた。
その後、彰子は指導力に乏しい弟たちに代えて一門を統率し、頼通らと協力して摂関政治を支えた。

万寿3年(1026年)正月19日、落飾し法名を清浄覚とする。
同日、一条天皇母后で、彼女にとっては伯母で、義母でもあった藤原詮子の先例にならって女院号を賜り、上東門院を称した。
後年、父道長が建立した法成寺の内に東北院を建てて、晩年ここを在所としたため、別称を東北院ともいう。

長元9年(1036年)4月17日に後一条天皇、寛徳2年(1045年)正月18日に後朱雀天皇が崩御。
十年の間に二人の子を失った。
その後は孫の後冷泉天皇が即位したが、女官に髪を梳かせていた彰子は、その代に息子藤原師実へ関白職を譲りたい頼通からそのつもりを聞かされた。
彰子はにわかに機嫌を悪くし、内裏へ「父道長の遺令に背くのでお許しにならぬように」との旨を奏上させ、ために頼通は弟教通へ譲らざるをえなかったエピソードがある。
その後、後冷泉のみならず、父が全盛を築いた摂関政治を終焉に導く事となった後三条天皇と、二人の孫にまで先立たれてしまった。
彼女は比較的に多くの和歌を残したが、なかでも後一条天皇の死後に詠んだ「ひと声も君に告げなんほととぎす この五月雨は闇にまどふと」等、夫や子供の死を悼んだ歌が多い。

曾孫・白河天皇の代、承保元年(1074年)10月3日に87歳で崩御。
同年2月2日に薨去した弟頼通に遅れること八ヶ月であった。
翌年には次の弟教通も没し、院政開始への道が敷かれた。

[English Translation]