藤原朝方 (FUJIWARA no Tomokata)

藤原 朝方(ふじわら の ともかた、久寿2年(1155年) - 建仁元年2月16日 (旧暦)(1201年3月22日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。
鳥羽法皇・後白河法皇二代に渡って仕えた。
父は藤原北家勧修寺家庶流の藤原朝隆(権中納言)。
母は「夜の大納言」と称されて権勢を誇った葉室顕隆(中納言)の娘。
三条大納言・堤大納言と称された。

永治元年(1141年)11月、鳥羽院庁の判官代から六位蔵人に任ぜられて、栄治2年(1142年)に従五位下に叙任した。
以降、淡路国守・近江国守・弁官などを歴任した。
鳥羽院別当をつとめていたことで後白河法皇の信任を得て、後白河院庁でも別当に任じられ、法皇最大の側近の一人(院近臣)として活躍した。
永万2年(1166年)に蔵人頭兼右大弁に就任、さらに安元元年(1175年)11月、参議に就任し、公卿に列した。
安元3年(1177年)10月に権中納言となり、寿永2年(1183年)4月からは正式な中納言に就任。
11月に源義仲が後白河法皇に対するクーデターを起こし、義仲からの圧力で一時的に解官されている。
しかし、無論法皇の信任を失っての解官ではないので、義仲が直後に鎌倉軍に征討された後はすぐに復権している。

文治2年(1186年)12月、陸奥国出羽国按察使に任じられ、文治4年(1188年)10月、権大納言に昇進。
しかし源義経に同意したとされて鎌倉の源頼朝の圧力でまたしても一時的に解官される。
後白河法皇の庇護でまもなく復官したが、やがて病に倒れて建仁元年(1201年)2月15日に出家。
翌16日には薨去した。
享年67。
能書家としても知られた。

[English Translation]