藤原行隆 (FUJIWARA no Yukitaka)

藤原 行隆(ふじわら の ゆきたか、大治 (日本)5年(1130年)- 文治3年(1187年))は平安時代末期の公家。
藤原北家勧修寺流藤原顕時の長男。
母は藤原有業の娘。
兄弟姉妹に藤原盛隆、藤原領子、子に藤原行長、葉室宗行、信空 (浄土宗)らがある。
葉室行隆とも。

長寛3年(1165年)に左少弁に任官するが、翌永万2年(1166年)に解官され、以後長年に渡って不遇の時を過ごす。
治承3年(1179年)に平清盛によるクーデターが起きると、清盛の推挙を受けて元の左少弁に還任する(その際の経緯は平家物語の「行隆之沙汰」の段に詳しい)。
翌年山城国守に任じ、最終的には正四位下左大弁にまで進んだ。

養和元年(1181年)には、平家の南都攻めによって消失していた東大寺の造寺長官に任ぜられ、その復興に当たった。
造東大寺大勧進職に就いた俊乗坊重源と協力し任務に当たったが、事業の完成を見ることなく死去している。

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