藤原顕光 (FUJIWARA no Akimitsu)

藤原 顕光(ふじわら の あきみつ、天慶7年(944年) - 治安 (元号)元年5月25日 (旧暦)(1021年7月7日))は、平安時代中期の公卿。
父は藤原兼通。
母は元平親王の女。
兄弟に藤原朝光、藤原こう子らが、子に藤原重家 (左近衛少将)、藤原元子、藤原延子らがある。
堀河左大臣とも称される。

父の兼通が関白になると、昇進して公卿に列するが、兼通の死後はその弟の藤原兼家が主導権を握るようになる。
兼家の子の藤原道長が左大臣となると、従兄の顕光は次席の右大臣に据えられた。
実権は道長にあり、しかも、顕光は無能者として有名で、朝廷の儀式で失態を繰り返して世間の嘲笑を買った。
娘の元子を一条天皇に入内させ懐妊するが流産?に終わる。
また、次女の延子は後一条天皇の東宮(皇太子)となった敦明親王の妃だったが、親王は東宮を辞退し、しかも道長の娘の元へ去ってしまった。
晩年、左大臣に上るが、失意のうちに死去した。
道長の家系に祟りをなしたと恐れられ、世に「悪霊左府」と呼ばれる。

生涯
村上天皇のときの朝廷の実力者右大臣藤原師輔の二男兼通の子として生まれる。
応和元年(961年)従五位下に叙せられる。

師輔の系統(九条流)は天皇との外戚関係を強く結んだ。
師輔の娘の中宮藤原安子が生んだ冷泉天皇、円融天皇が相次いで即位して、政界の主導権を握り、長男の藤原伊尹がまず天禄元年(970年)に摂政となるが、2年後に死去。
後継を巡って二男の兼通と三男の兼家が争った末に兄の兼通が関白宣下を受けた。

父の兼通が関白になると、顕光も引き立てられ、天延3年(975年)に参議となり公卿に列する。
貞元_(日本)2年(977年)には権中納言へ順調に昇進した。
ところが、同年、兼通は病に倒れ死去してしまった。

やがて、政界の主導権は兼家が握り、兼通の子の顕光の昇進は止まり、兼家の子たち(藤原道隆、藤原道兼、道長)にたちまち追い抜かれるようになる。
正暦元年(990年)に兼家が死去すると、道隆が関白となる。
弟の朝光は闊達な才人であり、かつ道隆の飲み友達で、顕光が中納言であるのに対して、大納言に昇進していた。

長徳元年(995年)都で疫病が広まり、公卿が次々と罹患して死に、弟の朝光も病没した。
関白道隆も普段の大酒がもとで死去してしまう。
代わってその弟の道兼が関白になるが、やはり病に倒れ数日で死去。
この疫病により公卿に多くの空席が生じたために、顕光は権大納言に昇進できた。

後継を巡って内覧の宣旨を受けた右大臣道長と内大臣藤原伊周(道隆の嫡男)が争う。
同2年(996年)に伊周とその弟の藤原隆家が花山天皇に矢を射かける事件を起こして失脚。
道長は左大臣に進み、右大臣には従兄にあたる顕光が任じられる。
顕光は形式的にはナンバー2となるが、実権は完全に道長のものだった。
その上に顕光はかねてから無能で知られていた。
有職故実・典礼に通じた学識人の藤原実資はその日記『小右記』で「出仕以来、万人に嘲笑され通しだ」と顕光を酷評している。

同年、顕光は娘の元子を一条天皇に女御として入内させた。
中宮の藤原定子は先に失脚した伊周の妹であり、しかも、道長の娘は幼くまだ入内できていない。
元子が第一皇子を産めば顕光は将来の外戚となりうる可能性があった。
そして、翌同3年(997年)に元子は懐妊する。
元子は堀川第に里下りして出産に備え、顕光は僧侶を集めて男子出産を加持祈祷させた。
ところが、元子は産み月になっても一向に産気づかない、顕光は寺へ連れてゆき安産の祈祷をさせ、ようやく産気づくが不思議なことに水が流れ出るばかりで、とうとう赤子は出てこなかった。
この騒ぎで顕光と元子は世間の嘲笑を受けた。
(『栄花物語』)

長保元年(999年)道長は長女藤原彰子を女御として入内させた。
同2年(1000年)道長は彰子を中宮となし、定子を皇后にさせた。
一帝に二后が立つ異例の事態だが、道長は権勢で押し通した。
彰子は幼く、まだ元子が第一皇子を産む可能性もあったが、元子が再び懐妊することはなかった。
結局、寛弘5年(1008年)に彰子が敦成親王(後の後一条天皇)を生み、続いて敦良親王(後の後朱雀天皇)も生んだ。
これで、道長との権勢の隔絶からも顕光が外戚となる可能性はほとんどなくなった。

同8年(1011年)一条天皇が崩御し、三条天皇(冷泉天皇の皇子)が即位した。
東宮には当然のごとく彰子の生んだ敦成親王が立てられる。
道長は三条天皇の外叔父にあたり、引き続き外戚ではあるが、両者は不仲となり、対立して政務が渋滞する事態となった。
この時に三条天皇が頼りにしようとしたのは学識人の大納言藤原実資であり、一方、右大臣の顕光は左大臣の道長に阿っていた。

この頃、未亡人となった元子が参議源頼定と恋仲になった。
これに顕光は激怒し、元子の髪を無理やりに切って尼にさせるという事件を起こしている。

長和5年(1016年)、三条天皇は眼病を理由に道長から強く退位を迫られ、宮中で孤立していた三条天皇はこれに屈して敦成親王への譲位を認めるが、自らの第一皇子の敦明親王を東宮とすることを条件とした。
道長はこれを受け入れた。

敦明親王には顕光の娘の延子が嫁して子も生んでおり、再び外戚となる可能性が出てきた。
もっとも、この時点で顕光はすでに70歳を超えている。
また、息子の重家も思うところあって既に出家していた。

三条天皇の譲位に伴う固関・警固の儀式が行われ、顕光は自らこれを買って出た。
道長は老齢な上に無能な顕光が儀式を取り仕切っては不安なので婉曲に断ったが、顕光は押し切って引き受けた。
顕光は式次第を書き付けた草紙(ノート)を持って儀式に臨んだが、結果は儀式進行の手違いや失態が多く、またも公卿たちの嘲笑を買うことになり、実資は『小右記』に「(失態を)いちいち書いていては筆がすり切れる」と書き残している。
これには道長も怒り日記で「至愚之又至愚」と罵倒している。
この時代は典礼儀式が最も重んじられ、それをこなせない顕光は無能者とされ公家社会から軽んじられた。

敦成親王が即位して後一条天皇となった。
東宮には約束通り、敦明親王が立てられたが、道長とは外戚関係のない親王であり、まして舅の顕光は頼りにならず、全く不安定な立場だった。

翌寛仁元年(1017年)3月、道長が左大臣を辞し、代わって顕光が左大臣に昇った。

同年5月に失意の三条上皇が崩御すると、その3ヶ月後の8月に敦明親王は自ら東宮の辞退を申し出た。
しかも、道長は敦明親王に報いるとして上皇待遇の小一条院の称号を与え、さらに娘の藤原寛子を娶らせた。
敦明親王は延子と幼い敦貞親王を捨てて、寛子の元へ去ってしまう。
夫を奪われた延子は絶望してほどなく病死する。

『十訓妙』によると、この事件のために顕光は一夜にして白髪になってしまい、さらに道長を怨んで蘆屋道満に呪詛させたという。

老齢の顕光はそれでも左大臣として数年出仕を続けた。
同2年(1018年)道長は後一条天皇に娘の藤原威子を入内させ、その中宮への立后の儀式のときに顕光はまたも失態をして、道長から罵倒されている。

治安元年(1021年)顕光は78歳で死去した。

顕光の死後、延子から敦明親王を奪った寛子が病死する。
次いで東宮(敦良親王)妃藤原嬉子が出産直後に急死。
さらに、三条天皇の中宮だった皇太后藤原妍子も崩御した。
これらの道長の娘の続けての死は顕光と延子の怨霊の祟りと恐れられた。
それにより、顕光は「悪霊左府」と呼ばれるようになった。

[English Translation]