藤原顕忠 (FUJIWARA no Akitada)

藤原 顕忠(ふじわら の あきただ、 昌泰元年(898年) - 康保2年4月24日 (旧暦)(965年6月1日))は平安時代の公卿。
左大臣藤原時平の次男。
母は大納言源昇の女。
従二位、右大臣。
富小路右大臣と号す。

父の早逝によって実権が叔父の藤原忠平に移ったことも影響し、承平 (日本)7年(937年)に参議に任官した時には40歳になっていた。
以後、天慶4年(941年)に従三位中納言、天暦2年(948年)大納言、天徳 (日本)元年(957年)左大将、同4年(960年)に63歳にして右大臣に至る。

謙虚で控え目な人柄であったといい、饗応に使う家の広さ、外出時における先払いの下人の数、また使用する食器の質など、万事において大臣としては異例なほど質素に振る舞った。
顕忠が一族の中で唯一人、菅原道真の祟りを受けることもなく長命し得たのは、こうした慎ましさのたまものであると噂されたという。

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