豊臣秀頼 (TOYOTOMI Hideyori)

豊臣 秀頼(とよとみ の ひでより/とよとみ ひでより)/羽柴 秀頼(はしば ひでより)、は、安土桃山時代から江戸時代前期の大名。

幼名は拾丸(ひろいまる)。
父は豊臣秀吉、母は側室の淀殿。
子は側室和期の方(名は伊茶。渡辺氏)との間に豊臣国松と、小石の方(おいわのかた。成田氏)との間に奈阿姫(生母については異説有)。
官位は正二位右大臣。

乳母は宮内卿局、右京大夫局(一説に両者は同一人物とも)、正栄尼が伝わる。
また、母・淀殿の乳母である大蔵卿局も姥(養育係)を務めた。

秀頼誕生~秀吉の死

文禄2年(1593年)、豊臣秀吉57歳のときの子で、大坂城で生まれたとされている。
秀吉の他の大勢の側室に子ができなかったことから、当時から秀吉の実子ではないのではないかとの噂が絶えなかった(豊臣秀頼秀吉との父子関係について)。

文禄4年(1595年)、秀吉から養嗣子として関白職を譲られていた従兄で義兄の豊臣秀次が失脚して切腹したため、秀頼が豊臣氏の後継者として伏見城で育てられた。
秀吉は晩年に秀頼を補佐するため五大老・五奉行の合議制を整えた。
秀吉が、慶長3年(1598年)に死去したため、秀頼は家督を継ぎ大坂城に移った。

秀吉死後には五大老の徳川家康が影響力を強め、さらに豊臣政権内でも対立が起こった。
五大老の前田利家の死去、七将石田三成襲撃事件に伴う五奉行・石田三成の失脚などで豊臣政権は家康が主導する形となる。

関ヶ原合戦

慶長5年(1600年)に三成らが家康に対して挙兵する関ヶ原の戦いが勃発すると、秀頼は西軍の総大将として擁立された、五大老毛利輝元の庇護下におかれた。
関ヶ原では秀頼の親衛隊である七手組の一部が西軍に参加したが、東西両軍とも「秀頼公のため」の戦いを大義としており、戦後に秀頼は家康を忠義者として労った。
だが、家康はその戦後処理において豊臣宗家(羽柴宗家)の所領を勝手に分配した。
秀頼は戦前は日本全国に220万石あった所領の内、大名への預け地となっていた分をとられて摂津国・河内国・和泉国65万石まで減らされた。
政権後継者から摂河泉の一大名の立場となる。
しかし、蔵入地に関しては存続していたようである(ただし徐々に支配権は幕府の管理に移ってゆく)。

さらに慶長8年(1603年)、家康が朝廷より征夷大将軍に任じられ、江戸城の普請を行い武家政権構築を始めた事により、秀頼は実質的に権力の座から外され、徳川政権に組み込まれることとなった。
豊臣家と徳川家の確執が起るが、同年には秀頼は秀吉の遺言もあり2代将軍徳川秀忠の娘千姫(家康の孫、母は淀殿の妹・崇源院)と結婚し、慶長10年(1605年)右大臣となる。
京都で秀頼と会おうとした家康は秀頼の上洛を希望するが、生母の淀殿が反対して拒否を続けた。
このときは家康が断念し、六男・松平忠輝を大坂城に派遣し、面会させている。
慶長16年(1611年)、後陽成天皇が後水尾天皇に譲位すると、ついに秀頼は、「正室千姫の祖父に挨拶する」という名目で、加藤清正・浅野幸長に守られつつ上洛し、京都・二条城で家康との会見を行った。

しかしその後も徳川家に臣従することはなかった。
つまり秀頼は、形式的には依然として家康の主筋だったわけである。
一方、秀頼にとっては頼るべき存在であった加藤清正・浅野幸長・池田輝政は大坂の陣が始まる前に病死してしまっている。

大坂冬の陣

形式的には主筋である豊臣家をこれ以上別格扱いすることを許容出来なくなった徳川家康は、慶長19年(1614年)に起こった方広寺鐘銘事件をきっかけに秀頼と決裂し、大坂の役が勃発する。

豊臣家は福島正則、加藤嘉明など豊臣恩顧の大名に檄をとばしたが大坂方に参じる者はなく、福島が大坂の蔵屋敷にあった米の接収を黙認するにとどまった。
一方、関ヶ原の戦いで主家が西軍に組し取り潰しにあい放浪していた数万の浪人たちや真田信繁(幸村)、後藤基次、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登ら浪人衆が大坂城に入城した。
浪人は非常に士気旺盛ではあったが寄せ集めなので統制がとりにくく、しかも浪人衆と大野治長・淀殿らが対立し、最後まで対立は解けなかった。
例えば真田信繁などが京都進撃を唱えても、大野治長などが頑強に反対し大坂城篭城に決するということもあった。

緒戦では木津川口の戦い (1614年)、博労淵の戦いなどの大坂城の周辺の砦が攻略され、残りの砦も放棄して大坂城に撤収、野田・福島の戦いでも敗れる。
ただ今福の戦い・鴫野の戦いでも敗れてはいるが、佐竹義宣 (右京大夫)軍を一時追い詰める抵抗を見せたため大坂方強しと周知される。

大坂城での戦闘では浪人衆の活躍や大坂城の防御力により、幕府軍は苦戦、城内に攻め入ろうにも撃退ばかりされ、特に真田丸の戦いでは幕府方が手酷い損害を受ける。
そこで幕府軍は城方に心理的圧力をかけるべく、昼夜をとわず砲撃を加えた。
本丸まで飛来した一発の砲弾は淀殿の近辺に着弾、侍女の身体を粉砕し淀殿を震え上がらせたという。

しかし次第に豊臣方、幕府方双方の食料や弾薬が尽きはじめ、この時点で家康は和議を提案。
秀頼は当初、和議に反対したといわれているが、淀殿の主張などによって和議が実現した。

大坂夏の陣

和議は堀の破却を条件に結ばれた。
しかし、徳川方は恒久講和など考えておらず再び豊臣を攻め滅ぼすことも算段に入れており、和議は謀略であった。
幕府方は堀を突貫工事で埋めてしまう。
堀のない城は裸城同然であるため、大坂方はこれに抗議するが、逆に浪人の総追放や国替えを要求された。

翌慶長20年(1615年)、大坂方は浪人の総追放や国替えを拒否、堀を掘り返し始めたため、家康は大坂城への侵攻を宣言、大坂の役大坂夏の陣が起こる。

大野治房が軍勢を率い大和国郡山に出撃、制圧・略奪して帰還する。
豊臣方は阪南から北上してくる幕府の大軍を、数で劣る自軍でも撃退できるよう狭い地域で迎え撃つべく、主力軍が八尾方面に進軍。
八尾・若江の戦い、道明寺の戦いで戦い、長宗我部盛親が藤堂高虎勢を壊滅させた。
ただ奮戦した木村重成、後藤基次が討ち死に、撤退する。
また紀伊国の一揆勢とともに浅野長晟を討つべく大野治房らが出撃した。
樫井の戦いで先方の塙団右衛門が浅野軍に破れ、本隊が到着したときには浅野勢は紀州に撤退済みだったのでなすすべもなく帰城する。

敗戦続きで兵力が疲弊した豊臣方は家康、秀忠が大坂に布陣したところに最終決戦を挑む。
天王寺・岡山の戦いである。
信繁は豊臣軍の士気を高めるために秀頼出陣を望んだが、結局果たせなかった。
淀殿が我が子かわいさのために頑強に首を縦に振らなかったと言われている。

岡山口方面では大野治房率いる軍勢が徳川秀忠本陣に切り込むまで追い詰めるが、態勢を立て直した幕府の大軍の前に撤退を余儀なくされる。

天王寺方面には真田信繁、毛利勝永らが布陣。
真田信繁は「日本一の兵(つわもの)」と敵味方関係なく絶賛されるほどの獅子奮迅ぶりを見せ、立ちふさがる徳川方を次々と蹴散らし、ついに家康本陣へ肉薄。
数度にわたる壮絶な突撃を敢行した。
家康に自刃を覚悟させるほどにまでに追いつめたが、仕留めきれなかった。
その後、信繁は退却中に力尽き討死に。
他の豊臣方の部隊も次々と壊滅していった。

豊臣宗家滅亡

豊臣勢を押し返した幕府軍が大坂城内に入城、大坂城内の浪人たちまでが略奪をはじめる。
やがて大坂城天守閣が炎上し、秀頼母子は山里丸に逃れるも徳川軍に包囲された。
天守閣炎上の前に、大野治長は千姫をひきわたすことで秀頼の助命を嘆願したといわれているが果たせず、秀頼は母・淀殿や大野治長らとともに山里曲輪で自害した。
享年23。

その後、息子の豊臣国松は殺害されるが、娘の奈阿姫は千姫の働きかけもあり仏門に入ることを条件に助命された。
また、求猒上人が元禄初頭に80歳で没する時、豊臣秀頼の次男で落城時に3歳であったと語ったとされる(『浄土本朝高僧伝』)。

墓所は京都市東山区の養源院ほか。

また大阪市中央区 (大阪市)の豐國神社 (大阪市)には、秀吉及び叔父に当たる豊臣秀長と共に祀られている。

昭和55年(1980年)、大坂城三ノ丸跡地より秀頼とみられる遺骨が発掘され、京都の清凉寺に埋葬された。

官歴

※日付=旧暦

文禄5年(1596年)5月13日 - 従三位左近衛権中将

慶長3年(1598年)4月20日 - 従二位中納言(参議を経ずして権中納言への転任は、摂関家藤原氏の官位昇進の例に倣う)

慶長6年(1601年)3月27日 - 大納言

慶長7年(1602年)1月6日 - 正二位

慶長8年(1603年)4月22日 - 内大臣

慶長10年(1605年)4月13日 - 右大臣

慶長12年(1607年)1月11日 - 右大臣辞任

人物

秀頼は公家風の教育を受けていたと言われ、伝存する筆跡は高い評価を受けている。
現在、一部で小柄で文弱なお坊ちゃまの少年というイメージが出回っているが、実際は身長6尺5寸(約197cm)、体重43貫(約161kg)の並外れた巨漢であったと伝わる(イメージ的には、現代の大相撲力士・貴ノ浪とほぼ同格の体格である)。
家康が二条城で秀頼と会見した時に、秀頼の巨体からかもし出されるカリスマ性に恐怖し、豊臣家打倒を決意したと記録するものもある程、武将としての威厳はあったとされている。
この点は近年のドラマ、舞台などでは忠実に再現され、舞台『SANADA』、大河ドラマ『葵徳川三代』などにおいて成人後の秀頼は身長の面で大柄な役者が演じている。
特に後者においては大鎧を着用した姿も描かれ、大柄であったことが強調されている。
体重の面を「忠実に」再現した役者となれば、『春日局 (NHK大河ドラマ)』での渡辺徹 (俳優)がその代表である。

このため身長が5尺(約152cm)も無いと言われ、平均身長が現在よりかなり低かった戦国時代においても「小柄な武将」として有名だった秀吉の実子かどうかが疑われる一因になっている。
ただし、祖父・浅井長政や祖母・お市の方が長身だったことを考えると、秀頼が大柄でもなんら不思議はない。

顔は天然痘の後遺症である痘痕が残っていたとも言われる。

妻である千姫との仲は良かったらしい。
しかし、二人の間に子供は出来ず、秀頼の側室の子供を養子とした。

蒲鉾が大の好物であったという。

江戸時代に作られた秀頼の伝記『豊内記』では「秀頼公は太閤の遺言に従い、天下の実権を征夷大将軍家康公に執らせて、大坂城に蟄居していた。
礼を重んじて義を行い、聖賢の風を慕い凶邪の念を去り、私欲を哀れんで民を哀れみ、国家が豊かになることのみ朝夕念じておられた。
故にこの君が政を執っておられたなら、日本に二度延喜・天智の治が現れただろう。
人々は大干ばつに雨をもたらす雲を望むが如く、秀頼の政治を待ち望んでいただろう」と描かれている。

また日本研究家レオン・パジェスの著書『日本切支丹宗門史』の中で「秀頼が失敗したのは彼の頑固な迷信のためで遺憾とするに当たらない」と評している。

秀吉との父子関係について

秀頼が秀吉の実子ではないとする説が古くからいわれてきた。

秀吉は農家の出身でもあることから戦国大名としては稀な非少年愛家であり、一方多くの女性を愛したとされている。
例えばルイス・フロイスの「日本史」には「300名の側室を抱えていた」とあり、誇張が含まれているとしても相当数の女性が常時大坂城にいたようである。

しかし、その一方で淀殿との間以外に子ができず(長子羽柴秀勝 (石松丸)ら長浜城 (近江国)時代の子の実在を疑う研究者も多い)、また、淀殿だけが2人の子供を生んでいることから、秀吉と秀頼の父子関係に対する疑問が唱えられたものと考えられる。
なお、この場合、当然豊臣鶴松も秀吉の子とは考えにくい。
秀頼については父子関係を否定する根拠の一つとして秀吉は朝鮮出兵のとき、母大政所の危篤時に帰京したのを除き、文禄元年4月から1年2ヶ月余り、名護屋城に滞在していたことが挙げられる。

では秀頼の実父は誰かという問いに対しては大野治長説と石田三成説が有名で(片桐且元とも)、珍説の類では徳川家康説、名古屋山三郎説がある。
治長は淀殿と乳兄弟であったことや三成は淀殿の生家浅井氏の治めた近江出身でその才気を淀殿に買われていたといわれることなどがその主な理由である。
特に治長は淀殿と密通していたとの記録もあることから、治長こそ実父であると考える学者は多い。
ただし、こうした説の正当性を示す根拠は存在せず、江戸時代以降に豊臣家と縁故の武将の地位を不当に貶めるために、殊更論われたとも言われている。
また、三成(且元とも)については淀殿が秀頼を妊娠した時期には文禄・慶長の役で朝鮮へ出兵していたため、秀頼との父子関係を合理的に否定することが出来る。

なお、秀吉との間に外見の類似性がないという見方については、前述の祖父母の血統に加えて信長が秀吉を「猿」と呼んでいたことは後世の創作とも言われており、この点は検証に値しない(※豊臣秀吉評価の項を参照)。

また、かつて秀吉に子がいない(少ない)ことは高台院に原因があるという考え方があった。
これは男尊女卑に基づく陋習であり、高台院以外の多くの女性との間にも子ができにくかった(長浜城時代の子を事実として含めれば、夭折した男児二人、女児一人が秀頼の前にいたことになる)ことから、やはり秀吉自身が子ができない(できにくい)体質であったと考えるべきだろう。

家康が秀吉死後(厳密には前田利家死後)すぐに豊臣家の勢力を削ぐことに傾注し、また、世情がそれに従い関ヶ原の戦いにおいて豊臣恩顧の多くの大名たちが家康側についたことも、当時既にそうした疑念が広まっていた傍証であるという考え方もある。

生存説

秀頼たちが絶命する瞬間を目撃した者がおらず、死体も発見されなかったことから、『日本西教史』(ジャン・クラッセ著)には落城時に死亡とも母妻をともなって辺境の大名領地に落ち延びたとある。
また、平戸のリチャード・コックス日記には城内にて焼死とも薩摩国・琉球王国に逃げたとある。
また、大坂城落城後に上方で「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」という童歌がはやったことなどから、秀頼は死亡しておらず秀吉恩顧の武将により密かに救出され落ち延びたとする脱出・生存の風説が流れたことがうかがえる。
しかし真相は定かではない。

誰が秀頼を匿ったかについては、下記の島津家や加藤家など諸説がある。

熊本城には「昭君の間」という部屋があり、ここが秀頼の居室であったとの伝承が残されている。

鹿児島県鹿児島市谷山に200人の落人があったがそれが秀頼と噂されたとあり、『左衞門佐君傳記稿』にはこのちに秀頼公の墳あると記す。

鹿児島県鹿児島市上福元町木之下に「伝秀頼公由緒地」の碑のある石塔の墓がある。

大分県日出町長流寺に伝秀頼の息子国松の五輪等の墓がある。

天草四郎の父親との説もある。
天草四郎に豊臣秀綱という名があると鹿児島で伝えられている。

能登国輪島の天領庄屋・時国家の養子となったとの伝承が残されている。

伝説上の豊臣秀頼の子

木下延次(木下延由) - 豊臣国松ではないかという仮説。

伊集院久尚

時国時広 - 良寛の高祖父。

求厭上人

清野誉之右衛門

豊臣秀綱(天草四郎)

橘正之

木下善右衛門

木場時忠

とよとみ「の」ひでより

「豊臣氏」姓とは「源氏」「平氏」「藤原氏」などと並ぶ本姓であるが、この本姓というものは「徳川氏」や「織田氏」、そして「羽柴氏」といった単なる名字とイコールではない(具体的には本姓、名字のそれぞれの項目を参照されたい)。

その本姓を用いた「豊臣秀頼」という名は、言うなれば「源義経=みなもとのよしつね」や「平将門=たいらのまさかど」と同じである。
したがって、本姓の読みである「とよとみ」と名の読みである「ひでより」の間に所属を意味する「の」を入れて「豊臣秀頼=とよとみのひでより」とするのが正しいと言えるが、少なくとも現代では「とよとみひでより」と「の」は無しで呼ぶのが一般的となっている。

[English Translation]