足利義澄 (ASHIKAGA Yoshizumi)

足利 義澄(あしかが よしずみ)は、室町幕府の第11代征夷大将軍(在位:明応2年(1493年) - 永正8年(1508年)。

父は8代将軍足利義政の弟である堀越公方足利政知。
母は権大納言・武者小路隆光の娘。
出家名は清晃、還俗して義遐、義高、そして義澄。
義政の養子となる。
正室は日野永俊の娘・安養院。
子に足利義晴と足利義維がいる。

明応2年(1493年)に10代将軍足利義稙(足利義稙)が細川政元によって追放されると、11代将軍として擁立された。
しかし、永正5年(1508年)に前将軍義稙を擁立する大内義興が上洛の軍を起こしたため、近江国へ逃れて将軍職を廃され、復帰できないまま死去した。

生涯

文明12年(1480年)12月15日、堀越公方足利政知の子として生まれる。
はじめ天竜寺で僧となるが、やがてで伯父・足利義政の養子となった。
明応2年(1493年)の明応の政変で10代将軍足利義稙(義稙)を追放した管領細川政元や日野富子らによって擁立され、11代将軍に就任する。
しかし、実権は細川政元や日野富子らに握られていた。

永正4年(1507年)に政元が暗殺され細川氏(京兆家)の家督をめぐる内訌が生じ(永正の錯乱)、翌永正5年(1508年)4月、前将軍義尹(義材より改名)を擁立する大内軍が上洛してくるとの報により、近江の六角高頼を頼って朽木谷、さらに蒲生郡岡山に逃れた。
7月、義澄は将軍を廃され、義稙(義尹より改名)が将軍に返り咲いた。

その後、再び勢力を盛り返そうとして細川澄元、三好之長・三好長秀親子を京都に侵攻させるなどしたが、そのたびに細川高国・大内義興らに敗れた。
また、義稙の暗殺を謀ったりもしたが失敗している。
永正7年(1510年)には義稙の命を受けた高国・義興らの近江侵攻を受けるが、近江国人衆を糾合した軍勢でもって勝利した。
さらに豊後国の大友親治や播磨国の赤松義村らに援助を求める御内書を送るなどして、将軍復帰を目指した。

しかし、永正8年(1511年)8月14日、義稙・高国・義興との決戦(船岡山の戦い)直前に近江国岡山で病死した。
享年32。

肖像は京都市北区の等持院(木像)。

官職位階履歴

※日付=旧暦
1493年(明応2年)4月28日、従五位下に叙す。
時に、義遐を名乗る(6月に義高と改名)。

1494年(明応3年)11月24日、正五位下に叙し、左馬頭に任官。
12月27日、征夷大将軍宣下。

1502年(文亀2年)7月12日、従四位下に昇叙し、参議に補任。
左近衛中将を兼任。
7月21日、名を義澄と改める。

1503年(文亀3年)1月14日、従三位に昇叙。
参議及び左近衛中将如元。

1508年(永正5年)4月16日、征夷大将軍参議左近衛中将等辞職。

1511年(永正8年)8月14日、薨去
1521年(永正18年)8月12日、贈従一位左大臣
1533年(天文 (元号)2年)9月12日、追贈太政大臣

義澄の偏諱を受けた人物

足利高基
細川高国
細川澄元
細川澄之
細川澄賢

[English Translation]