近衛前久 (KONOE Sakihisa)

近衞 前久(このえ さきひさ、天文 (元号)5年(1536年) - 慶長17年5月8日 (旧暦)(1612年6月7日))は、戦国時代 (日本)・安土桃山時代の公家。
近衛家当主であり、関白左大臣・太政大臣を務めた。
初名は晴嗣、前嗣。

官位を極める

天文 (元号)5年(1536年)、近衛稙家の長男として京都に生まれる。
母は久我通言の養女久我慶子。

天文9年(1540年)に元服し、室町幕府第12代将軍足利義晴から一字を賜り晴嗣と称する。

天文10年(1541年)には従三位に叙せられ公卿に列する。
天文16年(1547年)に内大臣、天文22年(1553年)に右大臣、天文23年(1554年)に関白左大臣となる。
また、藤氏長者に就任した。
天文24年(1555年)1月13日、従一位に昇叙し、名を前嗣と改める。

永禄2年(1559年)、越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛したが、前久と景虎は互いに肝胆照らし合い、血書の起請文を交わして盟約を結んだ。
前久は、関白の職にありながら、永禄3年(1560年)に越後に下向し、更に景虎の関東平定を助けるために上野国、下総国の古河御所に赴くなど戦国の公家らしい行動力に溢れていた。
永禄4年(1561年)、名を前久と改める。
しかし、永禄5年(1562年)8月に帰洛する。
景虎の関東平定後に上洛を促す計画であったともされている。

朝廷からの出奔

永禄8年(1565年)の永禄の変で将軍足利義輝を殺害した三好三人衆・松永久秀は将軍殺害の罪に問われる事を危惧して揃って前久を頼った。
前久は義輝の従兄弟であったがその正室である自分の姉を保護した事を評価してこれを認め、彼らが推す足利義栄の将軍就任を決定した。
だが、永禄11年(1568年)織田信長が足利義昭を奉じ上洛を果たした。
義昭は永禄の変後の前久の行動から兄の死には前久が関与しているのではと疑い、更に関白を狙う二条晴良も前久を追及した。
これに危機感を抱いた前久は、京都から本願寺11世顕如を頼って大阪石山本願寺に入って関白を解任された。
この時、顕如の長男教如を自分の猶子としている。
後に「信長包囲網」の動きが出てくると、前久も三好三人衆の依頼を受けてこれに参加して顕如に決起を促したと言われている。
だが、前久自身は信長に敵意は無く、信長の下で将軍・関白となった足利義昭と二条晴良の排除が目的であった。
そのため、天正元年(1573年)に義昭が信長によって京都を追放され、一方晴良も政治能力の無さから信長から疎んじられるようになると、前久は丹波国の赤井直正のもとに移って「信長包囲網」から離脱した。
天正3年(1575年)、信長の奏上により、帰洛を許された。

信長との親交

以後は信長との親交を深め、特に鷹狩りという共通の趣味を有していた事から、前久と信長はしばしば互いの成果を自慢しあったと言われている。
9月には、信長に要請される形で、九州に下向し、大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏の和議を図った。
天正5年(1577年)に京都に戻り、翌天正6年(1578年)准三宮の待遇を受ける。
次いで信長と本願寺の調停に乗り出し、天正8年(1580年)顕如は石山本願寺を退去した。
特に10年近くかかっても攻め落とせなかった石山本願寺を開城させた事に対する信長の評価は高く、前久が息子近衛信尹にあてた手紙によれば、信長から「天下平定の暁には近衛家に令制国を献上する」約束を得たという。
天正10年(1582年)2月に太政大臣となるが、5月には辞任している。
これは信長の三職推任問題に関連して前久が信長に同職を譲る意向であったからだとも言われている。
3月の甲州征伐には信長と同行する。

本能寺の変

だが、6月2日の本能寺の変によって、信長が横死したため、前久の運命も変転を余儀なくされる。
失意の前久は落飾し龍山と号する。
しかし、「本能寺を攻撃した明智光秀軍が前久邸から本能寺を銃撃した」と讒言に遭い、織田信孝や豊臣秀吉からも詰問される。
そのため、今度は徳川家康を頼り、遠江国浜松に下向した。

一年後、家康の斡旋により秀吉の誤解は解け京都に戻るが、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで両雄が激突したため、またもや立場が危うくなった前久は奈良に身を寄せた。
両者の間に和議が成立したことを見届けてから帰洛した。
晩年は一方的に慈照寺を別荘にして隠棲した。

慶長17年(1612年)5月8日、薨去。
享年77。
京都東福寺に葬られた。
法名は東求院龍山空誉。

人物・評価

前久は、五摂家の嫡流らしく、和歌・連歌に優れた才能を発揮した。
書道は、青蓮院流を学び、有職故実にも詳しかった。
更に馬術や鷹狩りなどにも抜群の力量を示して「龍山公鷹百首」という鷹狩りの専門的な解説書を兼ねた歌集も執筆している。
京都を離れ、地方を流浪遍歴することを余儀なくされたが、前久にとっては、単に経済的困窮や戦乱を逃れるためのものではなく、むしろ政治への積極参加のための手段の一つであった。
同時に地方に中央の文化を伝播する上で重要な役割を果たしたと評価されている。

[English Translation]