道首名 (MICHI no Obitona)

道首名(みちのおびとな、天智天皇2年(663年)- 養老2年4月10日 (旧暦)(718年5月18日))は文武天皇朝から奈良時代初期にかけての官人。
姓は君または公。
大宝律令の選定に携わり、地方官としても実績を挙げた。
死後も長く良吏として記憶された。

出自

出自は不詳だが、道氏は北陸地方の地方豪族であり、首名はその枝族で阿倍氏との関係から中央に進出したとする説がある。
やや先行するが同族と思われる道伊羅都売が天智天皇の夫人となり志貴皇子を生んでいる。
ただし首名との関係は不明。

律令撰定

青年の頃から律令を学び、官吏としての職務に明るかったという。
文武4年(700年)6月17日 (旧暦)、大宝律令撰定の功により禄を賜った。
この時位階は追大壱(冠位・官位制度の変遷冠位四十八階の33番目)であった。
律令撰定に携わった19名のうち、唯一律令を専修していたとされる。
大宝 (日本)元年(701年)4月7日 (旧暦)に百官の官人に対して新たな令の講説を、6月1日 (旧暦)には大安寺で僧尼令の講説を行った。
この時正七位下だった。

和銅4年(711年)4月7日 (旧暦)従五位に叙せられる。
和銅5年(712年)9月19日 (旧暦)平城京へ遷都後初の遣新羅使に任ぜられ、10月28日 (旧暦)に辞見。
翌和銅6年(713年)8月10日 (旧暦)に帰還している。

良吏

同年8月26日 (旧暦)に筑後国に任ぜられ、肥後国を兼任した(兼任の日付は不明)。
任地においては、人々に生業を勧め、耕作経営や果樹を植えること、鶏や豚の飼い方まで条例を制定し、時宜を尽くした方法を教えた。
またしばしば任地を巡行し、教えに従わない者に対しては処罰を加えた。
人民ははじめ内心恨んで罵ったりしていたが、収穫が増えることになってみな喜び、一、二年のうちにみな従うようになったという。
また溜池や堤防を築いて灌漑事業を広め、「安定した水稲耕作を可能にした」。
肥後国の味生池(あじうのいけ)をはじめとして肥後や筑後に数々の溜池を造ったという。
この地の人々が今この水利の恩恵を受けて生活が充足しているのは首名のおかげであるとされた。
青木和夫は、首名が律令を学ぶとともに中国の農業書をも読んでいたと推定している。
そのために先進的な中国の技術を用いた農事指導、溜池築造を行えたのだろうとしている。

霊亀元年(715年)1月には従五位上に、養老2年(718年)1月には正五位下に叙せられた。
筑後守在任中の同年4月10日に亡くなった。
任地の人々は没後彼を祠り、また官吏の任務について語る者は彼を範としたという。
続日本紀には彼の詳細な卒伝が載せられており、卒伝の記載が原則として淳仁天皇朝以降の四位以上の官人に限られていた続紀において例外的である。
後年、彼の子孫である道広持が承和 (日本)2年(835年)に当道朝臣と改氏改姓された際にも、首名の事跡が永らく遺愛されているとされた。
また貞観 (日本)7年(865年)に良吏であったという理由で従四位を追贈されている。

懐風藻には首名のつくった五言詩が一首収載されている。

[English Translation]