長松清風 (NAGAMATSU Seifu)

長松清風(ながまつせいふう、日扇(にっせん)、文化 (元号)14年4月1日 (旧暦)(1817年5月6日) - 明治23年(1890年)7月17日)は、本門仏立宗開導(開祖)。
日蓮宗において現世利益と他宗攻撃に重きを置いた活動を行い、後の法華系新宗教に影響を与えた。

略歴

1817年(文化14年)、現在の京都市中京区にて小間物屋の長男として生まれる。
家庭的な事情から、母子家庭で育つ。
その後家業を姉に任せて、儒学・国学・和歌・書道を能くする。

1842年(天保13年)、母が死去。
これを切っ掛けとして出家を決意。
当初は実家で信仰していた浄土宗に属するが、その後禅宗・日蓮宗一致派・真言宗・天台宗と宗派を転々とする。

1845年(弘化2年)、本能寺長遠院院主の随宏院日雄と邂逅、日蓮宗八品派(後の本門法華宗)に入信。
本能寺貫首の大覚院日肇と大亀谷檀林の能化・淡路隆泉寺住職の心光院日耀に師事する。

1848年(嘉永元年)、日耀を導師として得度。
本興寺勧学院の尼崎檀林への入檀を志すものの、檀林の学生らが拒絶し帰京。
関東の細草壇林への入壇を図るも文人仲間の村上勘兵衛と村田麦郎に諭され、入壇を取り止めて雙林寺 (京都市)西行庵に赴いて布教と修行に励む。

1850年(嘉永3年)、双林寺西行庵を追放され、以後京の各所を転々とする。
同年、日耀が妙蓮寺47世貫首に就任する。

その頃、本門法華宗内で「三途成不論争(皆久論争)」と呼ばれる皆成派と久遠派の教義上の論争があったが、勢力を蓄えていた講(在家信者)集団を巻き込み激化した。
当時、高松藩主松平頼胤の異母兄にあたり、久遠派の熱心な支持者で在家の指導者として中心的な存在だった松平頼該(1809年-1868年)は、宗門の無気力を嘆き、高松八品講を組織し、岡山、徳島、淡路島などで勢力を伸ばしていた。

1850年(嘉永3年)、日政(守進)が、この頼該に論破されるという事件があり、守進は堺顕本寺の日然と、尼崎檀林の日紹に応援を求め、本能寺の日肇と妙蓮寺の日耀は、頼該に味方した。
結果、本門法華宗は、日然、日紹と日肇、日耀の論争となり二分して対立した。

1855年(安政2年)、還俗。
僧侶が町家に居住することが固く禁じられたため、実家に迷惑がかからないためだった。

1856年(安政3年)、在家の頼該が十界久遠論に立って十界皆成論と論争するのを見て、頼該に書状を送付。
清風の主張に感激した頼該は清風を高松市に招聘し、清風は高松で折伏教化をした。
2人は高松と京都で新しく講を開くことで合意する。

1857年(安政4年)、華洛本門佛立講を開講する。

1862年(文久2年)、大津に長松山仏立寺法華堂を建立。

1868年(慶応4年)、大津法難に遭う。

1869年(明治2年)、本能寺竜雲院より立退きを求められ、その折、妙蓮寺の日成に願い出て、宥清寺を借り受け、本門法華宗内の佛立講最初の寺院とする。

1881年(明治14年)、日蓮の600回遠忌法要を宥清寺で営む。

1884年(明治17年)、仏立講の内紛のあおりで宥清寺を退去。

1890年(明治23年)、現在の大阪府守口市にて死去。

1899年(明治32年)、本門法華宗、清風に日扇上人の号を贈る。

1912年(明治45年)、大僧正に列せられた。

[English Translation]