難波頼輔 (NANBA Yorisuke)

難波 頼輔(なんば よりすけ、天永3年(1112年) - 文治2年(1186年))は平安時代後期の公卿・歌人。
大納言藤原忠教の五男。
母は賀茂神主成継の女。
蹴鞠の二大流派、難波家・飛鳥井家両家の祖。

母方の賀茂神主家に鞠の名手が多かったことから幼少より鞠を習い、「蹴聖」藤原成通に教えを受けたという。
保元の乱では、兄の藤原教長が崇徳天皇の側近として常陸国に配流され、頼輔は積極的に関与はしなかったものの、東山 (京都府)に籠居した。
その後、芸能を愛する後白河天皇に蹴鞠の才能を認められ、藤原師長・源資賢とともに院近臣に加えられた。
その蹴鞠の才は「無双達者」「本朝蹴鞠一道之長」と称された。

永暦元年(1160年)に豊後国守となった。
鼻が大きかったことから「鼻豊後」と呼ばれた。
治承5年(1181年)、平清盛が没すると各地で反乱が起こり、頼輔の知行国・豊後も動乱状態となった。
頼輔は知行国の支配安定を図るため豊後に下向(『玉葉』)、現地の武士・緒方惟栄の説得に成功した。
寿永2年(1183年)10月、都を追われ九州に落ちてきた平家一門を撃退したのは、頼輔の命を受けた緒方維栄だった。
平家一門はその後、海上をさまよい屋島にたどり着く。

皇太后宮亮・刑部卿を経て、従三位となり公卿に列した。
歌人としての活動も活発で、源頼政・藤原清輔・寂蓮ら多くの歌人と交流があった。
勅撰集に28首入集している。
家集は「頼輔集」。

[English Translation]