高麗若光 (KOMA no Jakko)

高麗 若光(こま の じゃっこう、生没年不詳))は奈良時代の豪族、在庁官人。
高句麗王族とされる日本書紀に記述がある高句麗から派遣された、大使の二位・玄武若光と同一人物とされてるいる。
また、高麗姓の由来は高句麗ではなく、若光を高句麗王族出身とするのを疑問視する説もある。
さらに、同じ高句麗王族の背奈福徳と同一人物とする説もある。

生涯
高句麗王族と見られるが所系未詳。
日本書紀によれば666年(天智5年)、高句麗の使者玄武若光として来日したという。
668年(天智7年)、唐と新羅の連合軍に高句麗が滅ぼされたため、若光は帰国の機会を失ったいう。

高麗神社の伝承によると相模国大磯(現在の神奈川県大磯町)に居住し、まもなく朝廷より、従五位下に叙された。
『続日本紀』によると703年(大宝 (日本)3年)に文武天皇により、高麗王(こまのこにきし)の氏姓を賜るとある。
これ以後、国史に若光及び「高麗王」という氏姓を称する人物は全く現れない。

『続日本紀』によると、716年(霊亀2年)、武蔵国に高麗郡が設置された際、東海道七ヶ国から移された1799人の高句麗人を移したという。

その郡の大領(郡司)に任命されて、大磯を去り、同郡に下って当時荒野であった高麗郡内を開拓して民生を安定させた(その後、東国の武士に影響を与えた)。
若光は大磯より去ったが、その後も大磯の国人はその徳を慕い高麗寺(高来神社の別当寺、現在は廃寺)を建立し、若光の霊を祀ったという(高麗神社伝承)。

また晩年に白髭を蓄えたため、高麗郡民からは「白髭様」と慕われた。
没年は定かではないが、再び故郷の地を踏む事をなく若光は死去したという。

高麗氏系図によると嫡男高麗家重が高麗氏を継ぎ、748年(天平20年)に没している。
新編武蔵風土記稿には誤って家重の没年が記されており、これをそのまま引用した研究書などに若光の没年が定かであるかのように記されている。

生前若光は日頃敬っていた猿田彦を祭り一社を設け、そこに武内宿禰を祭って崇拝したという(のちに白髭明神と呼ばれた)。
若光の死後、高麗郡民は若光を高麗明神として信仰し、高麗社を創建してのちに白髭明神に合祀され、高麗神社に祭祀されている。

墓所・霊廟
埼玉県日高市新堀にある聖天院・勝楽寺は高麗氏の菩提寺。
若光の三男とされる高麗聖雲が建てた。
聖天院・勝楽寺の雷門手前右側に、若光の墓とされる高麗王廟があり、聖天院本堂左側には若光の銅像がある。

[English Translation]