鮎川義介 (AYUKAWA Yoshisuke)

鮎川 義介(あゆかわ よしすけ、1880年(明治13年)11月6日 - 1967年(昭和42年)2月13日)は、日本の実業家、政治家。
日産コンツェルンの創始者。

※通称名で「あいかわ よしすけ」と呼ばれることもあるが、本名は「あゆかわ よしすけ」である。

生涯

1880年(明治13年、0歳)、明治時代の元勲井上馨の実姉の長女を母とし、旧長州藩武士鮎川弥八(第10代当主)を父として、山口県氷川郡大内村(現在の山口市大内地区)に生れた。

山口高等学校 (旧制)を経て、1903年(明治36年、23歳)に東京大学工科大学機械科を卒業。
東芝に入社。
身分を明かさない条件で日給48銭の職工となる。
その後、当時の技術はすべて西欧の模倣であったので、西欧の状況を体験すべく渡米。
約1年強を可鍛鋳鉄工場(グルド・カプラー社)で労務者として働く。

1909年(明治42年、29歳)、井上馨の支援を受けて戸畑鋳物(現日立金属)を創立。

1928年(昭和3年、48歳)、久原鉱業の社長に就任し、同社を日本産業(日産)と改称。
義弟久原房之助の経営する久原鉱業は、当時は、第一次世界大戦後の恐慌と久原の政界入りで経営破綻に瀕していたが、政友会の田中義一(陸軍大将)らの再建の懇請にしぶしぶ応じたもの。
会社を持株会社に変更し、公開持株会社として傘下に、日産自動車、日本鉱業、日立製作所、日産化学、日本油脂、ニチレイ、日本炭鉱、日産火災、日産生命など多数の企業を収め、日産コンツェルンを形成。

1933年(昭和8年、53歳)、自動車工業株式会社(現在のいすゞ自動車)よりダットサンの製造権を無償で譲り受け、同年12月ダットサンの製造のために自動車製造株式会社を設立する。

1934年(昭和9年、54歳)、自動車製造株式会社を日産自動車製造株式会社と改称。
1937年(昭和12年、57歳)、日産を満州国に移し、満州重工業開発株式会社として初代総裁・相談役に就任。
同時に満州国顧問、貴族院勅撰議員、内閣顧問を兼務した。
当時の満州国の軍・官・財界の実力者5人の弐キ参スケの1人とされた。

1939年(昭和14年、59歳)頃には白洲次郎らと世界情勢を語り合い、ドイツと英仏間の戦争は、英仏の勝利との結論を得る。
関東軍との関係悪化から日産グループの満州撤退を検討。
1942年(昭和17年)頃に満州重工業開発の総裁を辞任。
1943年(昭和18年、63歳):11月17日に藤原銀次郎が東條内閣に入閣すると、五島慶太、鈴木貞一らと内閣顧問に就任。

第二次世界大戦終結後、戦争犯罪容疑を受け1945年12月に逮捕され巣鴨拘置所に20か月拘置されたが、容疑が晴れる。
獄中にて日本の復興策を練る。
1952年(昭和27年、72歳)、日産グループ各社の出資を得て中小企業助成会を設立。
会長に就任。
以後、中小企業の振興に尽力。
1953年(昭和28年、73歳)、帝国石油社長、石油資源開発社長。
参議院議員に当選。

1956年(昭和31年、76歳)、日本中小企業政治連盟(中政連)を創立し、総裁に就任。
その後主として政治家としての晩年を送る。
また同年設立された全国中小企業団体中央会の会長にも就く。
この間、岸内閣経済最高顧問、東洋大学名誉総長。
産業計画会議委員(議長・松永安左エ門)就任。

1959年(昭和34年、79歳)、全国区より参議院に再度当選したが、同時に当選した次男鮎川金次郎派運動員の選挙違反容疑が高まり、12月に責任をとり議員辞職。

1966年(昭和41年、86歳)、持病の胆嚢炎を手術したが、高齢により回復がはかどらず入院が長引く。
1967年(昭和42年)2月13日、合併症による急性肺炎により駿河台杏雲堂病院にて死去。
享年86。

家族・親族

父:鮎川弥八(長州藩武士)

母:ナカ

大叔父:井上馨(長州藩士、政治家)

姉:スミ(高知県、士族木村正彦の養母)

妹:キヨ(山口県、実業家・政治家久原房之助に嫁する)

妹:フジ(福岡県、実業家貝島太市に嫁する)

妻:美代(京都府、実業家・高島屋創業家飯田二郎の長女)

長男:鮎川弥一(実業家)

中小企業助成会は長男弥一の代にベンチャービジネス向けの投資会社「テクノベンチャー」に改組している。

二男:鮎川金次郎(政治家)、二男の妻:雅子(ノーネスユニバーシティ学園長)

孫:鮎川純太(実業家・テクノベンチャー社長)

その他の親戚:岸信介(官僚、政治家・首相)、佐藤栄作(官僚、政治家・首相)

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