山田寺 (Yamada-dera Temple)

山田寺(やまだでら)は、奈良県桜井市山田にあった古代寺院。
法号を浄土寺または華厳寺と称する。
蘇我氏の一族である蘇我倉山田石川麻呂(そがのくら(の)やまだのいしかわ(の)まろ)の発願により7世紀半ばに建て始められ、石川麻呂の自害(649年)の後に完成した。
中世以降は衰微して、明治時代初期の廃仏毀釈の際に廃寺となった。
その後、明治25年(1892年)に小寺院として再興されている。
「山田寺跡」として国の特別史跡に指定されている。

開基・蘇我倉山田石川麻呂

山田寺の開基である蘇我倉山田石川麻呂(? - 649年)は蘇我氏の一族に属し、蘇我馬子は祖父、蘇我蝦夷は伯父、蘇我入鹿は従兄弟にあたる。
石川麻呂は蘇我氏の一族でありながら蝦夷、入鹿らの蘇我氏本宗家とは敵対しており、中大兄皇子(葛城皇子、後の天智天皇)、藤原鎌足らの反蘇我勢力と共謀して、皇極天皇4年(645年)に起きた乙巳の変(蘇我入鹿暗殺事件)に加担した。
乙巳の変後に発足した新政権では、石川麻呂は右大臣に任ぜられた。

『日本書紀』によれば、乙巳の変の4年後の大化5年(649年)、石川麻呂の異母弟・蘇我日向(ひむか)は、石川麻呂に謀反の志があると中大兄皇子に密告した。
そして、石川麻呂のもとへは孝徳天皇の軍勢が差し向けられた。
石川麻呂は抗戦せず、一族とともに山田寺仏殿前で自害した。
石川麻呂は無実であり冤罪(えんざい)であったとされるが、事件の真相については諸説ある。

創建の経緯

山田寺の創建については『上宮聖徳法王帝説』裏書に詳しく書かれており、山田寺について語る際には必ずと言ってよいほどこの史料が引用される。
同裏書によれば、舒明天皇13年(641年)「始平地」とあり、この年に整地工事を始めて、2年後の皇極天皇2年(643年)には金堂の建立が始まる。
大化4年(648年)には「始僧住」(僧が住み始める)とあることから、この頃には伽藍全体の整備は未完成であったが、一応寺院としての体裁は整っていたと見られる。
大化5年(649年)には上述の石川麻呂自害事件があり、山田寺の造営は一時中断する。

その後、天智天皇2年(663年)には未建立であった塔の建設工事が始められ、天武天皇5年(676年)に「相輪(仏塔の最上部の柱状の部分)を上げる」とあることから、この年に塔が完成したものと思われる。
天武天皇7年(678年)には「丈六仏像を鋳造」とあり、同天皇14年(685年)にはその丈六仏像が開眼されている(「丈六」は仏像の像高。
立像で約4.8m、坐像はその約半分)。
なお、この丈六仏像は頭部のみが奈良市・興福寺に現存し、国宝に指定されている。
発掘調査の結果や、出土した古瓦の編年から、以上の創建経緯はおおむね事実と信じられている。
なお、『日本書紀』には上述の丈六仏開眼の年である天武天皇14年(685年)、同天皇が浄土寺(山田寺の法号)に行幸したとの記事がある。
石川麻呂の死後も山田寺の造営が続けられた背景には、石川麻呂の孫にあたる持統天皇とその夫の天武天皇の後援があったのではないかと推定されている。

平安時代以後

平安時代には藤原道長がこの寺を訪れている。
『扶桑略記』によれば、治安3年(1023年)、山田寺を訪れた道長は、堂内の「奇偉荘厳」は言葉で言い尽くせないほどだ、と感嘆しており、11世紀前半には山田寺の伽藍は健在であったことがわかる。
その百数十年後の記録である『多武峰略記』(建久8年・1197年)によると、当時の山田寺は多武峰寺(現在の談山神社)の末寺となり、伽藍は荒廃して、一部建物は跡地のみになっていたことがわかる。

興福寺仏頭

奈良市・興福寺に所蔵される銅造仏頭(国宝)は、もと山田寺講堂本尊薬師如来像の頭部であった。
『玉葉』(九条兼実の日記)によれば、文治3年(1187年)、興福寺の僧兵が山田寺に押し入り、山田寺講堂本尊の薬師三尊像を強奪して、興福寺東金堂の本尊に据えた。
当時の興福寺は平重衡の兵火(治承4年・1180年)で炎上後、再興の途上であった。
この薬師如来像は応永18年(1411年)の東金堂の火災の際に焼け落ち、かろうじて焼け残った頭部だけが、その後新しく造られた本尊像の台座内に格納されていた。
この仏頭は昭和12年(1937年)に再発見されるまでその存在が知られていなかった。

現在の山田寺

山田寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となり、明治25年(1892年)に再興された。
現在は講堂跡付近に観音堂と庫裏が建つのみである。
現・山田寺の山号は大化山。
宗派は法相宗。
本尊は十一面観音である。
境内には天保12年(1841年)、石川麻呂の末裔の山田重貞によって立てられた「雪冤(せつえん)の碑」がある。
「雪冤」とは「無実の罪をはらす」の意で、書家・貫名海屋の書になるものである。

伽藍

山田寺の伽藍配置は中門・塔(五重塔と推定)・金堂・講堂を伽藍の中軸線上に南から北へ一直線に並べるもので、四天王寺式伽藍配置と似る。
ただし、四天王寺では中門の左右から伸びた回廊は講堂の両端に取り付くのに対し、山田寺では回廊は金堂と講堂の間を通り、講堂は回廊の外側に位置する点が異なっている。
回廊の規模は東西85m、南北89mである。

発掘調査の結果、山田寺の金堂は特異な平面形式をもっていたことがわかった。
古代の仏堂建築は、構造上、中央の身舎(もや、しんしゃ)と呼ばれる部分と、その周囲の庇と呼ばれる部分に分かれている。
山田寺金堂は、身舎の柱間が正面3間(柱4本)、側面2間(柱3本)である。
この場合、庇は柱が2本ずつ増えて正面5間(柱6本)、側面4間(柱5本)となるのが普通であるが、山田寺金堂の場合は、庇の柱間も身舎と同じ正面3間、側面2間で、身舎と庇の柱筋が合っていない。

金堂と回廊の礎石には柱の台座に当たる部分に蓮華文が刻まれている。
ただし、金堂の礎石は明治時代に高橋健自が調査した時には12個残っていたというが、その後抜き取られて古美術商などの手に渡り、現在は2個しか残っていない。

金堂跡と塔跡の周辺からは塼仏(せんぶつ、土を型取り整形し焼成して作った仏像)が多数出土しており、これらは堂塔の壁面を装飾していたものと思われる。
また、出土する瓦は単弁八葉蓮華文の軒丸瓦と重弧文の軒平瓦の組み合わせからなる「山田寺式」と呼ばれるもので、各地の古代寺院から同種の瓦が出土し、建築年代を推定する指標となっている。

東回廊の出土

山田寺跡は昭和50年(1975年)に国有地化され、以後本格的な発掘調査が実施されている。
発掘調査の成果のうち特筆すべきは、昭和57年(1982年)、東回廊の建物そのものが出土したことである。
土砂崩れにより倒壊、埋没した回廊の一部がそのまま土中に遺存していたもので、柱、連子窓などがそのままの形で出土した。
腐朽しやすい木造建築の実物がこのような形で土中から検出されるのはきわめてまれなケースであり、日本建築史研究上、貴重な資料である。
出土した回廊のうち3間分が科学的保存処置を施し、復元された形で奈良文化財研究所公開施設に展示されている。

アクセス

飛鳥資料館より東へ徒歩約10分

位置

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