紫微中台 (Shibichudai)

紫微中台(しびちゅうだい)は藤原仲麻呂(恵美押勝)が749年に創設した、光明皇后(紫微中台創設当時、既に夫の聖武天皇は娘の孝謙天皇に譲位していたため、光明皇太后である)の家政機関。
令外官。

概要

元来、皇后宮職・皇太后宮職と呼ばれていた組織が唐風に改称された。
家政機関であったが光明皇太后の命令(令旨)を施行・兵権を発動する機能を持った。
仲麻呂の権力拡大とともに国家の実質的な最高権力機関・軍事機関へと変貌した。
太政官に準じた位置にあり、長官の紫微令は準大納言待遇だった。
天平勝宝9年5月20日(天平宝字元年・757年6月11日)紫微内相と改称されて準大臣待遇となるとともに、太政官の大臣が持つ内外諸兵事を管掌して、太政官・中務省を経ずして直接詔勅を実施する権限を得た。
紫微内相は内臣に準じた役割を果たしたとされる。
表面上は光明皇太后の家政機関の体裁を取っていたものの、実際には孝謙天皇-藤原仲麻呂に属する独自の軍事・行政機関として当時太政官を巻き込んで展開された反仲麻呂・反孝謙天皇の動き(2ヵ月後に橘奈良麻呂の乱が発生する)に備えたものとされている。
758年に官職の唐風改称が行われると坤宮官と改称されて「居中奉勅、頒下諸司」を行う機関とされた。
これにより、孝謙上皇・淳仁天皇の詔勅を紫微内相が奉じて太政官に代わって直接下達・実行させる機関と位置づけられたことで名実共に太政官と並ぶ機関となった。
長官職は創設以来仲麻呂が務めていたが、758年に仲麻呂が大保(右大臣)に転じて太政官の首班となり、紫微内相が空位になった。
以後、実質は仲麻呂支配下にあったとは言え次第に重要性が低下し、760年の光明皇太后の死によって廃止された。
ただし、皇太后の一周忌における写経事業には坤宮官(紫微中台)も関与していることが正倉院文書などから確認できる。
さらに、一周忌終了後の天平宝字5年12月23日付の甲斐国司解 (公文書)(『大日本古文書』4巻所収)に逃亡した坤宮官仕丁の代替について記された記述がある。
以上から、実際には天平宝字6年(762年)前後に廃止されたと考えられている。

重要性が低下していたとは言え、太政官から独立して独自の軍事力と詔勅下達権限を有した紫微中台の廃止は仲麻呂にとっては打撃が大きく、仲麻呂政権崩壊の遠因にもなった。
仲麻呂を倒した称徳天皇(元の孝謙上皇)は、紫微中台に倣った独自の軍事組織として常設的な令外官である内豎省を設置している。

職員

紫微令(正三位相当)→紫微内相(757年から)
大弼 少弼
大忠 少忠
大疏 少疏

使部
直丁

[English Translation]